2020年2月11日火曜日

2020年2月11日(ローマの信徒への手紙2)

ローマの信徒への手紙2;
「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みがあり、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和があります。神は人を分け隔てなさいません。」
神が正しいお方なら、神が悪を行う者を裁き罰するというのは、当然のことです。ここで具体的に指摘されていることは、裁くことに現れるの罪です。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はありません。あなたは他人を裁くことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたも同じことをしているからです。私たちは、神の裁きがこのようなことを行う者の上に正しく下ることを、知っています。」人を裁くことで私たちは自分自身罪人であることを証明してしまっているのだ、と聖書は言います。裁くことは私たちにとっては快感です。テレビを見ながら、人の噂話をしながら、私たちは簡単に人を裁きます。それだけに厳しい、そして鋭くて耳が痛い言葉です。裁くことほど私たちにとって身近な罪は他にないのかもしれません。裁くとき、私たちは知らず知らずのうちに、自分は正しいという前提に立ちます。自分は正しいと信じなければ人を裁くことはできません。自分は正しいということは、自分が裁かれるはずはない、ということでもあります。
しかし、聖書は言います。「神は人を分け隔てなさいません」と。私たちの罪に応じて、神は正しい裁きをなさる。一体誰が神の裁きに耐えられるのでしょうか。
17節以下では「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り・・・」と言い始めて、律法の問題を語り始めています。律法に頼るという言い方が意味しいているのは律法を守る自分に頼るということですから、更に言えば自分の正しさに頼るということです。私たちの生活習慣には「律法」は少し遠いものであるかもしれません。しかし自分の正しさに頼るという価値観は、私たちに身近な問題です。そもそも自分の正しさに頼るから、私たちは簡単に人を裁いてしまう。自分の正しさを信じることから、私たちの罪が始まっているのかもしれません。
こういう聖書の言葉を読むと、聖書が「罪」と呼ぶ私たちの問題が、いかに根深く食い込んでいるかを考えさせられます。しかし本当は、人を裁く自分の罪の深さを私はわきまえていなかったと言わねばならないのだと思います。私は、私に代わって神に裁かれたキリストと出会うまでは、自分の罪深さが一体何を意味していたのかを知りませんでした。私に代わって裁かれた私の救い主と出会うまでは。

2020年2月16日(ローマの信徒への手紙7)

ローマの信徒への手紙7; 「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」 パウロは真剣...