2020年2月13日木曜日

2020年2月13日(ローマの信徒への手紙4)

ローマの信徒への手紙4;
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるものと見なされます。しかし、不敬虔な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。(3から4節)
ユダヤ人はアブラハムの子孫であることを誇りとしていました。自分たちの体に流れている血が、自分たちの正当性を神様の前で保証すると考えていたからです。このメンタリティは日本人に似ているところがあるように思います。日本人は日本人であることにこだわります。そのこだわりは差別心になって表出することもあります。
もちろん、ユダヤ人であることを忘れて「何人でもない私」なんて存在しませんから、そういう抽象化をすることも反対側の極端になってしまいます。それでは、パウロは、自分のユダヤ人としての誇りや民族性をどう解決したのでしょうか。
「アブラハムは神を信じた。それが神の義と認められた」と聖書は言っています。そのことを手がかりにします。アブラハムは割礼というしるしを持っていたから義とされたわけではありません。ここで唐突に割礼の話が出てきているようですが、割礼はユダヤ人であるというしるしですから、話は地続きです。割礼こそが彼らの民族性のシンボル、あるいはアイコンでした。ところが、アブラハムはそのしるしを持っていたから神に認められたのではなく、割礼も行いもある以前、ただ信じたときに神から義と認められた、というのです。これは、驚くべきことです。
企業の一員として認められるためには、社員として貢献しなければなりません。国家の一員として認められるためには、国籍を有したり納税したり、何らかの形で社会的に貢献しなければならないでしょうし、あるいはその人の民族性によって認められたり認められなかったりします。それは言葉を換えれば血縁です。しかし、アブラハムはただ信じることによって神に義と認められました。血縁によらず、貢献の度合いによらず、システムによらず、ただ信じることで神に認められた。神が義と認めたというのは、言葉を換えれば、神が「わが子」と言ってくださったということです。神の子ではない者を、神が子として迎えてくださった。神の家族にして頂いた、ということです。だから、アブラハムはすべて信じる者たちの父と呼ばれます。
私たちは、ただ信じるだけで神の子にして頂けます。神の子、神の家族として迎えられるのは、働きに対する報酬ではなく、無償で与えられる恵みです。信仰が、私たちを強くします。

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