2020年2月14日金曜日

2020年2月14日(ローマの信徒への手紙5)

ローマの信徒への手紙5;
「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためなら、死ぬ者もいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
私が正しいからとか善い人間だからというのではなく、悪い私のために、キリストは死んでくださいました。これでは、私の方には神に愛される理由がありません。私の悪いところも好いところも知っている神様が、悪い中にも光るいいところを見つけ出して愛してくださった、というのではないのです。私の存在はまるごと悪いものだけれども、その悪いものを神が愛してくださいました。パウロはその不思議に驚いています。そして、パウロは、悪い私、罪人の私を愛してくださった神を誇っています。
誇り、プライドは、私たちにとっては厄介な問題です。プライドばかり高くて鼻持ちならない人がいます。プライドの厄介さは、本人がそれに気づけない点にあります。私たちの目に他人のプライドはすぐに映って、とても気になります。しかし、自分の鼻持ちならない醜態は自分では気づきにくいです。
誇り、プライドのもう一つ難しい点は、誇りがないのもまた不健全だ、ということです。全然自信が無く、誇りもなく、卑屈でビクビクしているというのは、健康ではありません。もしかしたら、それもまた誇りの裏返しで、自分の誇りを傷つけられないようにという予防線のようなものなのかもしれません。
パウロは誇り高い人でした。昨日見たとおりに、その誇りの多くはユダヤ人であることにかかっていました。それだけではなく、彼はファリサイ派であり、立派な教育も受け、信仰にも熱心でした。そんな自分を誇って生きてきました。パウロは自分の誇りのためにキリストの弟子を迫害しましたし、それはキリストご自身を迫害することでもあったのでした。
そんなパウロがキリストと出会い、新しい誇りを得ます。「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を誇りとしています。このキリストを通して、今や和解させていただいたからです。」キリストが、悪人である私を愛してくださったから。神がキリストによって、一方的に罪人の私に和解の手を伸ばしてくださったから。ただそれだけがパウロの誇りです。私の良さや素晴らしさを誇るのではなく、あるいは私の悪さを卑下するのでもなく、キリストが私を愛してくださったこと、それだけを誇りとします。この誇りは、私たちの誇りでもあります。どんなときにも根拠が崩れてしまうことは決してない誇りです。キリストの愛が、私たちを誇り高くしてくださいます。

2020年2月16日(ローマの信徒への手紙7)

ローマの信徒への手紙7; 「内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の五体には異なる法則があって、心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのです。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救ってくれるでしょうか。」 パウロは真剣...