2020年2月15日土曜日

2020年2月15日(ローマの信徒への手紙6)

ローマの信徒への手紙6;
「時間」って、一体なんでしょうか。辞書を引くと、このようにに説明しています。「人間の行動を始めとするあらゆる現象がその流れの中で生起し、経験の世界から未経験の世界へと向かっていく中で絶えず過ぎ去っていくととらえられる、二度と元には戻すことができないもの。」なかなか難しい語釈です。簡単なこと、身近なことほど説明するのは難しい、ということであるのかもしれません。
今日の御言葉には、聖書の時間論が隠れているのではないかと思います。「しかし、神に感謝すべきことに、あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から聞き従って、罪から自由にされ、義の奴隷となったのです。」「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、その時、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥とするものです。その行き着くところは死です。しかし、今や罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる者となるための実を結んでいます。その行き着くところは永遠の命です。」
主イエス・キリストにあって、私たちの罪はもはや過去のものとなりました。私たちは、かつては罪の奴隷でした。罪に仕えて生きてきました。ところがキリストが何の功もない私をご自分のものとし、私のために十字架にかかり、私たちを罪の奴隷ではなく神の奴隷にしてくださいました。私たちは、今や、罪ではなく神に仕えて生きています。そして、神はわたしたちにやがて永遠の命を与えてくださることでしょう。私たちは罪の過去を生きてきましたが、、神の恵みによって今があり、そして神の約束という将来を待ち望んでいます。それが、聖書が言う「時間」の意味です。
だから、私たちはこのような神の恵みの時間を生きているのですから、それにふさわしく生きていきます。罪の過去を、私たちはときに懐かしく思います。しかしそれは、エジプトから脱出し、荒れ野の旅をする神の民が昔に懐かしんでいた肉鍋にすぎません。確かにここは荒れ野であっても、しかし、確かに神の恵みによって私たちは生かされています。神が与えてくださる約束の地に向かって。
私たちはエジプトを出た民が海の中をくぐってその旅を始めたように、洗礼の水を浴びせられて旅を始めました。あのときにかけられた水は、私たちが水に沈められて死んだ、という意味です。かつての私は死にました。今、キリストが生かしてくださっている私は、神の愛の中に生きています。確かにここは荒れ野であるかもしれません。しかし、キリストの十字架によって示された神の愛はいつまでも変わりません。私たちへの命の約束を成就するその日まで。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...