2020年2月2日日曜日

2020年2月2日(マタイによる福音書25:1~30)

マタイによる福音書25:1~30;
14節以降のタラントンの譬えで、主人が旅に出るとき(つまり、主人は不在です)に、自分の財産を預けます。ある者には5タラントン、別の者には2タラントン、他のものには1タラントン。タラントンというのはお金の単位で、一人の労働者の6000日分の賃金に相当します。そうすると、5タラントンというのは、約100年分の給料ということになるのでしょうか。莫大な額です。1タラントンでもおおよそ20年分です。
タラントンという言葉が語源になって、英語のtalentという単語ができました。テレビや何かに出るタレントでもありますが、「才能」をも意味します。このタラントンをそのまま才能という狭い意味で考える必要は必ずしもないと思います。しかし、ここで託されたタラントンはそれも含めて私たちが生きるために必要なものであり、私たち自身や隣人を生かすために神に与えられたもののことでしょう。与えられたものには差があります。平等ではない。それは私たちの人生の現実そのものです。私たちは皆が同じではない。タラントンという宝を預けた主人である神様は、私たちが与えられたものを用い、それに応じて自分自身や隣人を生かし、更に新しい宝を得ることを願っておられるのです。
5タラントンの僕と2タラントンの僕は与えられたものを大いに活用し、もうけを得ることができました。主人はそれを喜んでいます。ところが1タラントンの僕は宝を地面に埋め、主人の怒りを買ってしまいました。問題の急所は、主人への信頼ではないでしょうか。1タラントンの僕は、主人が「蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」だと信じて疑わなかった。それで、本当に怒りを招いてしまいました。主人は彼に向かって「悪い臆病な僕だ」と言います。臆病ではいけないのです。なぜ臆病になるのか。主人を信頼していないからではないでしょうか。
確かに、自分が持っているものと他の人が持っているものとを見比べると、自分の分は随分少ないんじゃないか、宝でも何でもないんじゃないかと思ってしまいます。あの人は5タラントンだけど、自分は違う。でもあの人よりはマシのようだから、私は2タラントンくらいかな・・・と。あるいは、自分が何十年分として神様に与えられたものは、うれしくないもの、こんなもの欲しくも何ともない、ということもよくあります。神様はどうしてこんなゴミを自分に渡してよこしたのか、と。
主人が一タラントンの僕について怒ったのは、もうけが少ないからではありません。主人を信頼しなかったからです。そのために臆病だったからです。自分が持つものを与えてくださった神様を信頼していれば、自分のタラントンを他の人と比較する必要も無くなるのではないでしょうか。神が私たちに託したものは、私たちの目にどう映ろうとも、必ず私たち自身のことも、隣人のことも生かすに違いありません。神様は祝福を込めて私たちに命というタラントンを委ねたのだと私は信じます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...