2020年2月3日月曜日

2020年2月3日(マタイによる福音書25:31~46)

マタイによる福音書25:31~46;
イエス・キリストによる裁きです。羊飼いが羊を右に、山羊を左に分けるように、すべての人をご自分の右と左とに分ける、と言われます。主は右側にいる者たちに言われます。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えているときに着せ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに尋ねてくれたからだ。」マザー・テレサがインドのカルカッタにある「死を待つ人の家」で人々の世話をしていたとき、主イエスのこの言葉を思い起こしていたという話を聞いたことがあります。あの愛の業は、主イエスに仕えるというところから始まっている。主に仕えるように、隣人に仕えている。主は、「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」と言われるとおり、飢え、よそ者であり、裸をさらし、病気に苦しみ、牢にいる囚人への小さな愛の業を喜ばれる方です。
その愛の業が「小さな愛の業」だと言うのは、そのあいに生きた人自身が「主よ、いつ私たちは飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ・・・」と言っているとおり、本人にもその自覚がない、というところに現れています。しかし、主イエスはそれをお喜びになります。
先日、ラジオ番組にあるイラン人がインタビュー出演していました。その人は現在日本にオーバーステイしており、牛久の入管施設に収容されている。建前上その施設は強制送還までの間の一時的な収容施設ですが、実態は入管の思うがままに何十年だろうと収容することができます。過酷で劣悪な環境で、音を上げて自費で国へ帰るまで無期限に収容が続いている。この人はなぜ故国に帰ろうとしないのか。彼は日本に来て、キリスト者になったそうです。イスラム教の国であるイランに帰れば迫害される。だから、帰ることはできない。しかし日本にいるかぎり収容施設での生活が続きます。熱があったりお腹が痛かったりして医者に診てもらいたいと訴えても、申請してから早くても一週間くらい経たないと診てもらえない。どんなに高熱だとしても、です。私はラジオを聴きながらとても苦しくなりました。彼らは全く人間扱いされていません。オーバーステイは確かに法を犯しているのかもしれませんが、ここまで人間扱いされないということがあっていいのでしょうか?そして、私はこれを聞きながら、聖書が寡婦、孤児、そして寄留者を苦しめたり圧迫したりしてはならないと繰り返し言っていることを思い出しました。そして、今日の御言葉です。「あなたがたは、私がよそ者であったときに宿を貸し、牢にいたときに訪ねてくれた。」主イエスはそのことを喜んでおられます。
私たちは、今、どう生きるのでしょうか?主が「この最も小さな者の一人」と言われる人は、私たちの周囲にもいるのではないでしょうか。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...