2020年2月8日土曜日

2020年2月8日(マタイによる福音書27:32~66)

マタイによる福音書27:32~66;
「さて、昼の十二時から全地は暗くなり、三時に及んだ。三時ごろ、イエスは大声で叫がれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である。」
主イエス・キリストは十字架にかけられ、吊された木の上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死んで行かれました。私たちは毎週の主の日の礼拝のときに使徒信条を告白していますが、そこで告白している主イエスが陰府に降られたということの意味は、これです。主は神に見捨てられて死なれた。神に見捨てられて死んだイエスがおられるところ、それが「陰府」です。
私たち長老教会の始まりとなったジャン・カルヴァンは、キリストが「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだとき、ほんの一瞬だけれども、キリストはそこで神であることをやめてしまわれた、キリストの神性は隠されてしまった、と言います。つまり、そこまで深く、キリストは神に裁かれ、徹底的に神から捨てられたと言うのです。
キリストが神に捨てられたということこそ、キリストが私たちに変わって王手くださった神の裁きです。私たちは、キリストが変わって神から捨てられたので、もはや神に捨てられることはありません。私のことを神様はもう見捨てたのだ、神様に呪われているのだと思わざるを得ない現実が、ときに私たちに降りかかってくるでしょう。しかし、私たちはそれでも神に捨てられていない。神から呪われてはいない。キリストがそれを全部引き受けてくださいました。私たちが降るべき陰府に、キリストが降ってくださいました。その十字架はあまりに重く、主イエスはご自分一人で負いきることができないほどでした。キレネ人シモンという人が十字架を運ぶために徴用されて、無理に担がされます。このシモンという男は、私たちのことなのかもしれません。私たちも、キリストと共に十字架を負います。パウロは言います。「今私は、あなたがたのために喜んで苦しみを受けており、キリストの体である教会のために、キリストの苦難の欠けたところを、身をもって満たしています。(コロサイ1:24)」私たちも、キリストと共なる苦しみに招かれています。隣人のための苦しみであり、キリストの苦しみを負う苦しみです。それはこのお方が、私たちのために代わって裁きを引き受けてくださったから、起こりうることに他なりません。

2020年9月21日(テサロニケの信徒への手紙二3)

テサロニケの信徒への手紙二3 「どうか、平和の主ご自身が、いついかなるときにも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。主があなたがた一同と共におられますように。 私パウロが、自分の手で挨拶を記します。これはどの手紙にも記す印で、私はこのように書きます。私たちの主イエス・キリ...