2020年3月13日金曜日

2020年3月13日(ヘブライ人への手紙11:23〜40)

へブラ人への手紙11:23~40;
「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの娘の子と言われるのを拒んで、罪のはかない楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐げられる方を選び、キリストのゆえに受ける辱めをエジプトの宝にまさる富と考えました。」
ヘブライ人への手紙が語る旧約の人々の信仰による歩みは、ときに、かなり大胆な解釈をしてみせます。モーセがエジプトを逃れたことは出エジプト記に書かれていますが、出エジプト記によれば、それは彼が同胞ヘブライ人を虐げるエジプトの役人を殺してしまったことに端を発していました。とても信仰によってファラオの娘の元を離れたとは言えないような事件です。しかし、その細かないきさつをこの手紙は大胆に省略し、罪のはかない楽しみではなく、神の民と共に虐げられる方を選んだのだ、と解釈し直します。エジプト出奔の事件だけを切り取って考えると困ってしまいますが、しかしモーセの生涯をトータルで考えれば、なるほどと思います。モーセは信仰によって生きた人でしたし、彼はエジプトに象徴されるこの世の富のはかない楽しみではなく、神の民と共に苦しむことを選んだ人物だったことは確かです。
そして何よりもこのモーセを評する言葉は私たちへのチャレンジです。私たちは、自分の楽しみを維持することと、他の人のために苦しむことと、どちらを大切にしているのでしょうか。本当は、自分のためだけに楽しむことは「はかない」ことだとどこかで気づいています。しかし自分の楽しいことを他人のために我慢するのは、簡単ではありません。いや「他人」などと言わなくとも、家族でも愛する人でも、自分のしあわせを犠牲にするのは難しことです。
そして、そのことをヘブライ人への手紙は「キリストのゆえに受ける辱め」と言っていました。もしかしたらこちらの方がより大胆な解釈です。モーセの苦しみはキリストのための苦しみだったと言うのですから。神を信じて引き受ける、神と隣人のための苦しみは、モーセがまだそのこと知らなかったとしてもキリストのための苦しみなのだと言います。その通りです。そして、私たちの苦しみにも、同じことが言えるのです。
キリストは「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい(マルコ8:34)」と言われました。私たちが神や隣人のために、自分の楽しみや幸せを脇に置くことは、自分の小さな十字架を負うことです。モーセが、代々の信仰者たちが歩んだ道に、私たちも招かれています。

2024年4月20日の聖句

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