2020年3月23日月曜日

2020年3月23日(マルコによる福音書5:1〜20)

マルコによる福音書5:1~20:
主イエスが墓場で出会った一人の人は、汚れた霊に取りつかれていました。「この人は墓場を住みかとしており、もはや誰も、鎖を用いてさえつなぎ止めておくことはできなかった。度々足枷や鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり足枷を砕くので、誰も彼を押さえつけることができなかったのである。彼は夜も昼も墓場や山で叫び続け、石で自分の体を傷つけていた。」
墓場に住んで、鎖でつながれて、自分を縛り付ける。それはまるで、現代社会の私たちの姿そのものではないでしょうか。私たちが市民生活を平穏に送るために必要であったはずのシステムに縛り付けられ、その奴隷となり、自分のポジションを守るために他人を威嚇し、或いは顔色を窺って隷従せざるを得ない。救いのない死におびえ、それを否定或いは隠蔽し、自分のことも周囲のことも傷つける。不自由な私たちの姿そのものではないでしょうか。
更に、この汚れた霊はイエスによって豚に乗り移ります。「イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れは、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で溺れ死んだ。」堰を切ったように崖に向かって突進し、結局は湖の中に落ちて溺れ死んでしまう・・・。恐ろしい光景です。この汚れた霊が二千匹も信田に乗り移るほどの「集団」であったことがまた怖いことです。私たちは、この時代の「集団」に働く汚れた霊を「時代の精神」として目の当たりにします。「生産性がない者は生きている意味がない」というのは、この時代の精神です。あるいは、生活保護は甘えているとか、○○人は日本を貶めようとしているとか、それも時代の精神の言葉です。私たちはこの時代の子として、そういう時代精神の言葉を息を吸うように吸い、吐いてしまいます。私たちは、レギオンに取りつかれてはいないでしょうか?私たちはあの豚どものように崖になだれ込み、湖の底めがけて、狂ったように走り出してはいないでしょうか。
私たちには、主イエスが必要です。どうしても必要です。時代が本当に必要としているのは、よこしまな言葉や憎悪をあおるような言葉ではなく、生産性を物差しに人の価値をジャッジするような思いやりのなさではなく、キリストの憐れみです。私たちはキリストの憐れみを受けなければ、生きられません。だから、主は私たちに言われます。「主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい」、と。主は、私たちにその憐れみを向けておられる。私たちのために、今日も十字架への道を進んでおられます。主イエス・キリストの憐れみに生かされる一日でありますように。

2024年4月27日の聖句

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