2020年3月28日土曜日

2020年3月28日(マルコによる福音書7:24〜47)

マルコによる福音書7:24~47;
今朝は「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方へ行かれた」と始まっています。ティルスはユダヤよりも北にある場所、すでにユダヤの外に出ています。そして、その場所で主イエスはギリシア人でシリア・フェニキア出身の女と出会いました。
「イエスはそこを立ち去って」とあります。この「そこ」というのは23節までの話の舞台です。そこで起こったのは、ファリサイ派や律法学者との汚れと清めに関する論争です。ユダヤ人からすると移動物の死体も汚れていましたが、異邦人も汚れた存在でした。主は汚れと清めに関するファリサイ派やユダヤ人たちの偽善を指摘して、それからすぐに外国に出て行き、異邦人と出会われた、ということになります。
この異邦人の女の娘は、汚れた霊に取りつかれていました。娘から悪霊を負いだしてくださいと母は主イエスに願います。しかし、すげない答えが返ってきます。「まず、子どもたちに十分に食べさせるべきである。子どもたちのパンを取って、小犬に投げてやるのはよくない。」あんまりにも冷たい言葉のように感じます。犬は、レビ記11:27で「四本足で歩く生き物の内、肉球で歩くものは、すべてあなたがたには汚れたものである」とあり、やはりここでも主が御自ら「汚れ」を問題にしています。しかしこのような言い方をしてはファリサイ派と同じなのではないかと思ってしまいますが、それだけ切実に彼らの偽善を糺さなければならないという切迫感があったのかも知れません。
ところが、この女の言葉が主をも変えてしまいます。「「主よ、食卓の下の小犬でも、子どものパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出て行った。」女が家に帰ってみると、その子は床に横たわっており、悪霊は出てしまっていた。」この女の姿は前のところのファリサイ派やユダヤ人と全く正反対で、外面的な汚れや清めではなく、主イエスにまっすぐに向かう、まさに「信仰」と呼ぶにふさわしいものだったのではないでしょうか。
主はその後再びガリラヤ湖に戻り、今度は耳の聞こえない人を癒やします。このような一連の話の流れを考えると、この耳の聞こえない人は、外面的なあり方にこだわり、主を求める信仰の内実を忘れがちな私たちの姿を象徴しているように思います。そんな私たちの耳を開いてくださるのは、主イエスご自身です。主が私たちの耳を開いてくださり、私たちは聞くべき言葉に一心に耳を傾けることができますように。

2024年4月23日の聖句

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