2020年3月27日金曜日

2020年3月27日(マルコによる福音書7:1〜23)

マルコによる福音書7:1~23;
ファリサイ派の人々と律法学者らがイエスの弟子たちの食事のようすを見て異論を唱えました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」と。弟子たちは手を洗っていなかったのです。
今の文脈で私たちが読むと、手を洗っていないなんてなんて危険な!という感想を持ってしまいますが、ここでの事情は少し違ったようです。ファリサイ派の人々や律法学者が手を洗うことにこだわっていたのは、衛生的かどうかということを考えていたからではありません。彼らも、また他のユダヤ人たちも、昔の人の言い伝えを守っていた。生活の中でいろいろな律法の禁じる汚れたものに触れているかも知れない。特に市場に行けば動物の死体に触れたり、血に触ったりしているかも知れません。だからその汚れを落とすために手を洗い、あるいは器なども清めてからでないと使おうとしない。保健的な意味での衛生的か不潔かということではなく、宗教的な浄・不浄の問題です。(私たちには、今、衛生上の問題で手洗いが大切です!)
そのような事情から彼らは弟子たちが手を洗わないで食事をしているのを見咎めて、イエスに詰問をしたのです。ところがイエスはそれは偽善だと言って聖書の言葉を引用します。「この民は唇で私を敬うが、その心は私から遠く離れている。空しく私を崇め、人間の戒めを教えとして教えている。」彼らは信仰上の理由で手洗いが大切だと考えていましたが、それは形ばかりの偽善にすぎない、彼らの本心は神から遠く離れているではないか、と指摘したのです。結局、人間の言い伝えや戒めを守っているだけで、神の言葉を無にしていると言います。
その象徴がこの「汚れ」の問題です。人を汚すのは体の中に入るもの、つまり食べ物ではない。不潔なものはむしろ体の中から排泄される。それと同じで、人の心から出るものが人を汚す。「淫行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、妬み、冒瀆、高慢、愚かさ、これらの悪はみな中から出てきて、人を汚す。」
どれ一つ取ってみても自分と無関係とは言えません。自分の中から生まれてくるものです。自分の中から出て来る罪によって、私は自分で自分を損なっています。主イエスは、人間存在の根本に罪を見ておられます。
そんな私たちを清めるのは、人間の言い伝えではありません。主イエス・キリストだけです。キリストだけが罪に汚れた私を清め、救うことがおできになる。そのことを深く信じ、主の憐れみを求めます。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...