2020年4月21日火曜日

2020年4月21日(ペトロの手紙一1)

ペトロの手紙一1
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しており、今見てはいないのに信じており、言葉に尽くせないすばらしい喜びに溢れています。それは、あなたがたが信仰の目標である魂の救いを得ているからです。」
この言葉が使徒ペトロの書いた手紙に残されていることに大きな魅力を感じます。誰よりも主イエスを見てきた人です。他の誰よりも一緒に過ごし、ぞの声を直に聞き、主と共に歩んだ人です。その人が、同じようにこの目で主イエスを見たことのない私たちに向かって言います。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛しているね」と。私たちの主イエスへの愛、キリストへの愛は、主を見て生きてきたペトロと比べて遜色ないと、この一人の使徒は私たちに言ってくれているのではないかと思います。
信仰って、一体何でしょうか?難しく考えていろいろな議論をすることもできるかも知れませんが、ここではシンプルに、一言でそのことを伝えてくれているのだと思います。信仰、それは主イエス・キリストへの愛です。まだ見たことのないキリストを愛し、キリストを信じる喜びに満たされていること。それが信仰です。主は、私たちの小さな愛や喜びを忘れることなく、その御心に留めていてくださることでしょう。
今、いわゆる「宗教」への評判はよくありません。人格を無視したり、人間の自己決定権を蔑ろにしたり、自分たちの信仰のために他人を犠牲にしたり、というイメージがいよいよ強まっています。私は牧師ですが、自分を宗教家だとは思っていません。「キリスト教」という宗教の信者だとも思っていません。私は、キリストを愛する者です。キリストを信じ、そのことを喜びとして生きている者です。そのことと、いわゆる「宗教」という営みとは違うと思っています。
私たちのキリストへの愛は、「信仰の目標である魂の救いを得ているから」であり、その救いは「死者の中からのイエス・キリストの復活を通して」私たちに与えられました。それは私たち人間の営みやその力の外にあることです。そのことをもって宗教だと評価してみせることもできるかも知れません。それならそう言ってもらっても構わない。しかし、私はキリスト教という宗教の教えや戒律を信じているのではなく、イエス・キリストという一人の方を愛し、その人格と御業に救われたと信じています。だから、私の願いは、キリストへの愛を深くしてください、ということです。ご自身の命をも下さったキリストへの愛を増し、私もキリストがしてくださったように生きさせてください、と願います。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...