2020年5月26日火曜日

2020年5月26日(ルカによる福音書22:1〜23)

ルカによる福音書22:1~23
「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれた。使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。『苦しみを受ける前に、あなたがたと共に、この過越の食事をしたいと、私は切に願っていた。』」
主イエスは、苦しみを受ける前、すなわち十字架を前にして使徒たちと共に食事をすることを望んでおられました。一緒に食事をすることの尊さ、かけがえなさは私たちにもよく分かります。特に、このようなときには。しかし、主イエスが弟子たちと囲みたかったのは、ただの会食のテーブルではありませんでした。「この過越の食事をしたい」と主は言われます。他の何でもなく、過越の食事です。
旧約の時代、エジプトで奴隷であったヘブライ人。追い使う者のために苦しみ、呻いていた彼らを救うために、神さまはモーセをお遣わしになりました。モーセはヘブライ人たちを解放するようにファラオと交渉しますが、ファラオはあくまで頑なになって、首を縦に振ることを拒みました。そこで、神さまは10の災いをエジプトの中に引き起こします。ところが、それが重なれば重なるほどにファラオの心はますます頑なになっていきました。その最後が過越の災いでした。エジプトの地にいるありとあらゆる人や家畜の初子を神が討ったのです。ヘブライ人に対しては、羊の初子を殺してその地を家の玄関の鴨居と柱に塗れ、と言います。小羊の血の目印を見て、初子を殺すために使わされた天使はその家を過ぎ越すであろう、と。ヘブライ人たちはこの夜の過越の出来事を記念して、毎年春になると過越の祭りを祝います。主イエスは、その食事を、十字架を前にして弟子たちと共にとりたいと願ったのでした。
過越の出来事は、本当は死ぬべき私のために、小羊の血が身代わりになって命を救うためのしるしになりました。十字架で流されたイエスの血は、同じように、死ぬべき私たちの身代わりになって流された、私たちのための血のしるしです。
主イエス・キリストは、この食卓で、ここで裂かれるパンは私たちのために裂かれるご自分の体であること、ここで飲まれる杯は私たちのために流されるご自分の地であることを明言なさいました。私たちのために、キリストが犠牲になってくださいました。
聖餐の食卓を、みんなで一緒に囲める日を、私たちは心から待ち焦がれています。私たちはこの食卓に思いをはせる度に、私たちのためにご自身を犠牲にしてくださったキリストを思い起こします。キリストが、私たちのために、小羊のように血を流してくださったからです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...