2020年5月27日水曜日

2020年5月27日(ルカによる福音書22:24〜46)

ルカによる福音書22:24~46
「イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」
十字架を目前にした主イエスのオリーブ山(マタイやルカは「ゲツセマネの祈り」と呼びます。)での祈り。主イエス・キリストは祈ります、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください。」主イエスは苦しみもだえて祈ります。汗が血の滴るように地面に落ちました。ご自分がかけられることになる十字架の苦しみをまだ他の誰も知らないところで悟り、すでにその苦しみが始まったかのようにして祈っておられます。
しかし、主イエスが戻って御覧になると、弟子たちは「心痛のあまり眠り込んでいた」のでした。うっかりすると弟子たちは疲れて寝ていたかのような気がしてしまいますが、聖書をよく読むと「心痛のあまり」と言っています。悲しいから寝ていたというのです。そして、主イエスが祈りはじめる前に「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っておられたことを考えると、ここで主イエスが指摘している「誘惑」というのは、悲しみによって信仰が寝てしまうという誘惑なのではないでしょうか。悲しむこと自体は悪いことではないはずです。しかし、時に悲しみは私たちの心を固くします。主イエスを見えなくさせてしまうことがあるです。
このオリーブ山の祈りの時に寝てしまった弟子たちは、私自身の姿です。そんな私の慰めであり救いであるのは、主イエスがこう言ってくださったことです。「あなたがたは、私が試練に遭ったときも、私と一緒に踏みとどまってくれた人たちである(28節)」。新約聖書が書かれたギリシア語では、「試練」と「誘惑」という言葉は同じ単語です。文脈によって誘惑あるいは試練と訳し分けます。そうとすると、一体いつ、私たちは主イエスが試練や誘惑にあわれたときに一緒に踏みとどまることができたのでしょうか。むしろ、試練や誘惑の中で悲しみに心をかたくなにし、主を見失ってしまう私です。まして主ご自身が誘惑に遭われるようなとき、一体どうして私が主と共に踏みとどまることができたのでしょうか。
この言葉は、主イエスが十字架にかかってご自分の血を流して、その血によって私を赦してくださったという、その赦しの中でしか聞くことのできない言葉なのではないかと思います。主は「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われます。主の赦しに心を向け続けるために、私たちは祈りに向かっていきます。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...