2020年6月1日月曜日

2020年6月1日(使徒言行録1)

使徒言行録1
「さて、使徒たちは集まっていたとき、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。』」

「あなたがたの上に聖霊が降ると・・・」という言葉はあまりに有名ですが、こういう文脈で語られた言葉だったのか、と気づかされます。使徒たちは、十字架にかけられて復活したイエスに向かって問いました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか。」主イエスは、そう問われてどうお思いになったのでしょうか。がっかりなさったのではないでしょうか。主が十字架にかかったのを目撃した者たちの言葉です。それどころか、墓に葬られ、甦ったイエスと再会した者たちの言葉です。それが、この期に及んで、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは・・・」というのは、まったく分かってくれていない、これまで一体何を聞いてきたのか、と思われてもしかたがないような言葉です。
しかし、この言葉は、人間の有り様を真実に言い表していると思います。命まで献げてくださった方を前に、私たちは結局自分や自分の所属集団のことしか考えられないのです。主イエスが十字架に向かっていくときに、イエスに向かって、あなたが王座に着くときには私たちを右と左に座らせてくださいと言ったのと同じことが起きている。自分のポジションが関心の第一であって、主イエスがどんな思いで十字架にかかったのかを考えようとしない。その想像力を欠いている。私は、そこに自分自身の姿を見ないわけにはいきません。
主イエスがご自分の霊である聖霊を与え、主の復活の証人とすると約束したのは、そういう者たちでした。12節以下では自殺したユダに代わってマティアという人が使徒に選ばれます。思えば、彼らは皆ユダと同じです。いやもしかしたら、十字架にかけられるイエスを見捨てて逃げたのですから、自分で何かを考えて行動を起こしたユダよりももっと酷いのかも知れません。流されるままになり、結局は逃げたという意味において。そんな者たちを、主はご自分の復活の証人として選び、証人として生きるために必要な神ご自身の霊の力を与えてくださいます。私たちも、キリストの復活の証人です。復活の証人、それは、罪人を憐れんでくださるキリストの愛の証人でもあります。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...