2020年6月14日日曜日

2020年6月14日(使徒言行録9:23〜43)

使徒言行録9:23~43
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。」
ここに「平和のうちに築き上げられ」と書いてあります。驚くべき言葉であると思います。外面的に見れば、教会は平穏無事だったというわけではありませんでした。確かにサウロは主イエスとで会って回心し、教会の仲間になりました。しかし、他にもたくさんの迫害者がいます。それに、サウロの存在自体が一つの問題です。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。」それはそうだろうと思います。自分たちの仲間の振りをして油断させ、一網打尽にしようと思っているのではないかと警戒されても仕方がありません。というよりも、恐れられて当然のことをこれまでしてきました。
それだけではなく、サウロはユダヤ人の側から見れば裏切り者です。まだサウロがダマスコにいたころ、「ユダヤ人はサウロを殺そうと企んだ」と言います。これもまた、当然そういう話になるだろうなと思います。サウロがしてきたことを、サウロ自身がかつての仲間からされる立場になったのです。
サウロ一人を巡ってみても、教会の現実は、これで本当に平和と言えるのかと疑問を持たないわけにはいかないものでした。それなのに、どうして聖書は「教会は・・・平和のうちに築き上げられ」と言えたのでしょうか。
サウロのために、彼を信じて彼と教会との架け橋になってくれた人がいました。バルナバです。この人は、使徒4:36に登場していました。「レビ族の人で、使徒たちからバルナバーー『慰めの子』という意味ーーと呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。」この人がサウロを引き受けてくれました。「バルナバは、サウロを引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼が旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって堂々と宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで弟子たちと共にいて自由に出入りし、主の名によって堂々と宣教した。」
平和というのは、何もないこと、平穏無事なことではありません。波風は立つし、傷も負います。しかし、主イエス・キリストとの出会いがそこにあり、主にある隣人との出会いがあるところに、主の平和があるのではないでしょうか。隣人のために受ける傷を共に引き受ける共同体、それが教会であり、教会で経験する主の平和です。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...