2020年6月22日月曜日

2020年6月22日(使徒言行録15:1~21)

使徒言行録15
バルナバとパウロはアンティオキア教会に帰り、異邦人がキリストを信じたことを報告し、皆がそれを喜びました。ところが、ユダヤからやって来た人たちが違った反応を見せます。「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と、彼らは兄弟たちに教えました。その人とバルナバ・パウロとの大論争になりました。そこで、この件について協議するために、バルナバとパウロはエルサレムへ向かったのです。
バルナバとパウロは異邦人に神が働き、彼らがキリストを信じたことを報告します。ところが、ファリサイ派から改宗して信者になった人々が言いました。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように教えるべきだ」と。モーセやバルナバは、ここに、ただの習慣や手続きといったような表面的な問題を超えた、福音の本質がかかっていることを見抜いていました。
まず、パウロたちは、神ご自身が異邦人を受け入れておられることを立証します。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らを受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした。」神は、誰であっても受け入れ、ご自分の霊を与えて新しくしてくださる。そこには何の差別もない。「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも追い切れなかった軛を、あの弟子たちの首にかけて、神を試みようとするのですか。」神が差別せず受け入れているのに、どうしてあなたたちが異邦人を差別するのか、と問いただします。神は、今何をしておられるのか?私たちのあり方は、それにふさわしいのか?そのことを問います。
そして、「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」私たちは、自分の良い行いや立派さによって救われるのではないのです。ただ主イエスの恵みによって救われるのです。そこに本質がある。割礼問題は、その本質を揺るがしてしまう。だから、パウロもバルナバも、決して譲ることはできないと断乎として言ったのです。
ときどき、神さまの愛は、親が子どもを愛する愛のようなものだという人があります。私はそれは間違っていると思います。親の愛は、限りある小さなものです。子どもに平気で条件をつけてしまいます。悲しいことです。私たちの内から生まれてくる愛はその程度でしかありません。だから、そこから類推すると、神さまの愛にも条件があって、小さなものでしかないように思い込んでしまう。しかし、本当はそうではないのです。神の愛はキリストによって示された愛であって、そこには何の条件も差別もありません。それどころか、敵のためにご自分の独り子イエスを与えてくださる愛です。底知れない愛の世界に、聖書は私たちを招いているのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...