2020年7月21日火曜日

2020年7月21日(マタイによる福音書23:22〜39)

マタイによる福音書23:22~39
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」
主イエスのこの激しい嘆きの言葉は、私たちすべての信仰者に向けられた言葉として読まないわけにはいかないと思います。何度も何度も、繰り返し、主イエスは私たちを集めようとしてくださいました。めんどりが雛を羽の下に集めるように。しかし、私たちはそれに応じようとはせず、却ってその羽を引き裂き、めんどりを退け、さらに殺してきたのだ、と主イエスは私たちに言われます。
めんどりが雛を羽の下に集めるように、主イエスが私たちを集めようとしておられる。何を意味しているのか?もちろん、私たちを神様の御許に帰らせようとしてきた、ということでしょう。それでは、私たちが神様の御許に帰るとは、何を意味しているのでしょうか。キチンと礼拝をすることでしょうか。献金をすることでしょうか。奉仕をすることでしょうか。主イエスは言われます。「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実を蔑ろにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物もないがしろにしはできないが。」神様は、私たちを新しくしようとしておられます。公正、慈悲、誠実に生きる者として、新しくしようとしておられます。別の言葉で言えば、隣人への愛に生きる者にするということでしょう。神様が、ご自身を信じる私たちに何よりも求めておられるのは、私たちが実際に隣人への公正や慈悲、誠実という愛に生きることだと言われます。
それは、主イエスが私たちにしてくださったことです。そういう基準で公正、慈悲、誠実ということを考えてみると、どんな人をも見捨てずに共に生きること、包摂することなのだと思います。私たちへのキリストの福音は、インマヌエル(神は我らと共におられる)という言葉から始まりました。キリストは、私たちを共に生きる者へと、新しくしてくださるのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...