2020年7月9日木曜日

2020年7月9日(使徒言行録26)

使徒言行録26
パウロはついにアグリッパ王の前に立って弁明します。
まず、パウロはかつての自分を語ります。「私の若い頃からの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初からどうであったかは、ユダヤ人なら誰でも知っています。」すなわち、パウロはもっとも信仰に厳格に生きるファリサイ派の一員として生きてきたし、その道に従ってナザレのイエスの名に大いに反対してきました。イエスを信じる者を迫害し、またイエスの名を冒瀆して生きてきた。それが、先祖から受け継いできた希望に生きることであると信じていたのです。
神を信じて生きること、神に希望をかけて生きることが誰かを迫害し、苦しめること、憎むことであるというのは、悲しいことです。人の心の中にそういうファリサイ根性、裁きを楽しむ心が簡単に芽生えてくることは、誰でもよく知っていることです。
しかし、そんなパウロが変わりました。イエスと出会ったからです。太陽よりも明るく輝く光の中で、イエスがパウロに出会ってくださいました。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ、自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人とするためである。」主イエスにそのように言われ、パウロは新しい使命に生きるように利ます。パウロは新しくなりました。主イエスはパウロを異邦人のもとへと遣わし、イエス・キリストの福音を宣べ伝えさせます。「それは、彼らの目を開いて、闇から光りに、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるようになるためである」と主イエスは言われます。闇から光りに、サタンの支配から神に、というのは、パウロ自身の体験でもありました。かつては正義感のために憎しみで覆われていた心が、キリストの和解の福音を携えて、自分を囚人としてつなぐ者のところへも向かわせたのです。
このようなパウロ自身の主イエスとの出会いの物語を聞かされて、思わずアグリッパは言いました。「僅かな言葉で私を説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか。」パウロは答えます。「言葉が少なかろうと多かろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につながれていることは別ですが。」あるユーモアさえ感じさせる言葉です。自分を遣わした方は、自分をつなぐ鎖を持つものよりも偉大だと信じていたから、このように大胆だったのでしょう。私たちもパウロと同じようにキリストと出会い、太陽よりも明るい光の中に置かれ、サタンの支配ではなく神の手の内に生かされています。私たちを遣わしておられる方は、まことに偉大なお方です。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...