2020年8月11日火曜日

2020年8月11日(コリントの信徒への手紙一10)

コリントの信徒への手紙一10
「あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」
イスラエルの祖先はエジプトを脱出して40年間の荒れ野の旅をしたとき、何度も同じ過ちを繰り返しました。すなわち、神ならぬものを神として拝みました。神を礼拝するのではなく、他のものを神としました。それは金の子牛であったり、エジプトでの奴隷の日々への懐かしみであったり、自分たちの腹であったり、いろいろです。この荒れ野の40年間は、私たちの信仰の旅路と全く同じです。私たちもキリストと出会って自由にされ、新しい人生を生きています。しかしそれは極楽浄土のような順風満帆の中を進むのではなく、荒れ野を旅するようなものです。そして、そこには試練があり、誘惑があります。パウロに言わせれば、その誘惑の本質は、偶像礼拝への誘惑です。だから、パウロは私たちに気づかせようとします。神が、私たちのための逃れる道を備えていてくださっている、と。
どこに逃れる道があるというのでしょうか。パウロはそのすぐ後に聖餐の話を始めます。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つです。皆が一つのパンにあずかるからです。」私たちは聖餐にあずかってキリストとの交わりにあずかり、キリストと一つになります。聖餐は、悪霊との交わりではなくキリストの交わりです。聖餐は、荒れ野で神がマナを用意してくださり、飲み水を準備してくださったのと同じように、キリストが私たちのために備えてくださった食卓です。だから、私たちはこの食卓にあずかることでキリストと一つになります。
日曜日の小会で今後の聖餐についての話し合いをしました。今、私たちの生活圏でコロナの感染が拡大している状況下にあり、やはり主日礼拝の中で再開することは困難と結論せざるを得ませんでした。しかし同時に、これまでも少しご案内していましたが、個別に小さな聖餐礼拝をすることといたしました。今後ある日程を定期的にもうけ、聖餐の食卓にあずかる機会を設けていきたいと思います。この食卓は、キリストが私たちのために準備してくださった逃れの道です。私たちのためにキリストが裂いてくださったお体との交わり、私たちのために流してくださった血潮との交わりこそ、私たちの苦難の日の流れ場です。私たちはキリストと一つになることで、苦しみの中でも生きることができます。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...