2020年8月15日土曜日

2020年8月15日(コリントの信徒への手紙一14)

コリントの信徒への手紙一14
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人にではなく、神に向かって語っています。誰も聞いていないのに、霊によって秘儀を語っているからです。しかし、預言する者は、人を造り上げ、勧めをなし、励ますために、人に向かって語っています。異言を語る者は自分を造り上げますが、預言する者は教会を造り上げます。」
異言という言葉が出てきます。元は「舌」という言葉から生まれた単語ですが、ここでは特別な祈りを指します。通常の祈りとは異なり、異言の祈りは周りの人からは意味が分かりません。特殊な言葉のようです。いやそもそも、言葉と言えるのかどうかもよく分かりません。異言による祈りの音声が伝わっていないからです。そういう祈りをしている教会は今もあります。それはそれで尊重されるべきであると思います。しかし、私たちの教会ではそういう祈りの習慣はありません。異言よりももっと優れた道があるからです。
それが、預言です。預言の異言との違いは、預言は意味が分かる言葉だということです。そしてもう一つは、異言が人ではなく神に向かう言葉、自分自身を造り上げる言葉であるのに対して、預言は人に向かって語られた言葉であり、通じるべき言葉、そして他者を造り上げるための言葉だといいう点です。だから、パウロは預言を追い求めるように、といいます。他者を造り上げ、教会を建て上げる言葉を互いに交わし合いなさい、と。「愛を追い求めなさい」という一句に尽きます。第13章で語られていた愛という賜物の具体的な姿が、自分自身ではなく隣人を造り上げる言葉としての預言の言葉だ、とパウロはいいます。
そう考えると、これは私たちにとってとても身近な問題であることに気づきます。私たちが交わしている言葉は、自分自身だけを造り上げる言葉に過ぎないのか。それとも、隣人を造り上げる言葉、自分ではなく隣人のために語られた言葉なのか。もちろん、人のためと言いながら自分の意見を押しつけるなどという愚かなことではありません。愛の言葉です。愛の言葉は、語るよりもむしろ耳を傾けて聞くというところに特質が生まれてくるのかも知れません。そういうことをトータルに捉えたところでの愛の言葉。そして、それが単に「愛の言葉」というだけではなく「預言」と呼ばれるのは、他でもなくキリストを語り合う言葉であるからでしょう。キリストの愛こそが私たちの絆です。私たちの慰めであり、励ましです。このキリストの福音が私たちに愛の言葉として響く。それが教会が語る預言の言葉です。

2024年4月19日の聖句

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