2020年8月30日日曜日

2020年8月30日(コリントの信徒への手紙二12)

コリントの信徒への手紙二12
「また、あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つの刺が与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました。ところが主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ』と言われました。それゆえ、私は弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときこそ強いからです。」
パウロはとても神秘的な体験をしたようです。生きたまま、第三の天にまで引き上げられた。第三の天というのがどういうものなのか、私にはよく分かりません。確実なことは、それがパウロにとっては神の素晴らしい恵みを垣間見る幻であったということです。 神のパラダイスをその目で見たということであるのかも知れません。あまりに素晴らしいその体験は、言葉では言い表せないほどのものであった。それで、そのような神秘的な特別な体験をしたパウロが思い上がることのないようにと、彼の肉体に一つの刺が与えられた、と言います。
肉体の刺というのが具体的に何を意味しているのか。学者たちはそれをいろいろな角度から検討しているようです。彼には何らかの持病があったのではないか、簡単ではない障害を抱えていたのではないか。そう推測し、具体的な病名を挙げる人もいます。いずれにしても、その刺はパウロにとっては大変な痛みであったということは確実です。
パウロはその苦しみを過ぎ去らせてくださるように祈りました。それでも去らない。パウロはこの痛みを、神のパラダイスまで垣間見た自分が思い上がらないための刺だと理解しました。この痛みはサタンの使いの仕業だ。しかし、それを「思い上がらないための刺」と言った瞬間に、それは神の手の中にあることに過ぎなくなる。使い魔の仕業とは言っても、すべては神の御手の中にあります。だから、パウロはこの刺のために絶望しない。
それどころか、彼はむしろこの刺を持つ自分の弱さを誇ります。弱さの中でこそ、神の力が発揮されるからです。神の力は、他の人を寄せ付けない神秘的な体験の中で発揮されるのではありません。自分だけの、他の人にはない特別な境地において神の力が現れるのではない。この弱い肉体に刺さった悪魔の刺において、神の素晴らしい恵みに満ちた力が発揮される。だから、パウロは喜びます。神の力を喜びます。弱い私を生かしてくださる神の力を!弱い私を生かし、あなたをも生かす神の力を喜ぼう!パウロは私たちの前で、そのように証言します。

2024年4月23日の聖句

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