2020年8月7日金曜日

2020年8月7日(コリントの信徒への手紙一7:1~24)

コリントの信徒への手紙一7:1~24
「おのおの召されたときの状態に留まっていなさい。召されたときに奴隷であっても、それを気にしてはいけません。自由の身になれるとしても、そのままでいなさい。主にあって召された奴隷は、主によって解放された者であり、同様に、召された自由人はキリストの奴隷だからです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。きょうだいたち、おのおの召されたときの状態で、神の前にとどまっていなさい。」
パウロがこのように述べる背景には、主イエスの再び来るときはもう間近に迫っているという切迫した意識があります。ここでは、結婚から始まって離婚、割礼、奴隷などの諸問題について触れながら、「おのおの召されたときの状態に留まっていなさい」と勧めています。これは単に現状維持でいなさい、何も変化を起こさないようにしなさい、という意味ではないでしょう。むしろ、主イエスが再び来られて世界が終わる日が近いというパウロの時代のキリスト者たちの切迫した認識が背後にあり、その上で、今のこの時をどう生きるのかということを問うたところで生まれた言葉であるのだと思います。
そのことを前提にして読むと、結婚するかどうか、配偶者が自分の信仰を理解してくれない場合に離婚しても良いのか、割礼は受けた方が良いのか、あるいは割礼の跡をなくした方が良いのか、奴隷である者はそれを拒むべきか、そういったことは、あくまでも相対的なことに過ぎないと言っているのだろうと思います。一番大切なことは、主イエス・キリストをお迎えするということであって、私たちの人生の中で起こるさまざまな事柄は、それが人生を左右するような大切な事柄であっても、決定的な問題ではないと言っているのだと思います。
私たちにとっては、どういう人と結婚生活を送るのか、あるいはそもそも結婚するのか、この婚姻関係は継続可能なのか、あるいはどういう職業に就き、どうやって働くのか、そういうことが自分の人生にとってのいちばん大切な事柄であるように思います。しかし、もっと大切なことがあると気づいたとき、それらの人生の選択についてもまた違った目で立ち向かうことができるのではないでしょうか。私たちは主にあって解放された者であり、キリストの奴隷です。私たちは主イエス・キリストに仕えています。キリストの奴隷である私が、今日、主が出会わせてくださったこの人に仕え、この人を愛する道を探る。それが私たちの隣人との出会いなのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...