2020年9月15日火曜日

2020年9月15日(テサロニケの信徒への手紙一1)

テサロニケの信徒への手紙一1
「私たちは、祈りの度に、あなたがたを思い起こし、あなたがた一同について、いつも神に感謝しています。あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれたことを知っています。」
テサロニケはエーゲ海を臨むマケドニア州の町です。第二次宣教旅行の時、パウロとシラスがこの地を訪れて伝道し、教会が生まれました。パウロはこの教会を覚え、彼らのために祈り続けていました。祈りの度にテサロニケ教会のことを思い起こし、神に感謝したと言います。パウロの祈りは、テサロニケ教会のためだけではなく、この手紙を回覧して読むほかの教会の人々のための祈りでもあったのではないかと思います。そうであるとすれば、この祈りはこの手紙を今読んでいる私たちのための祈りでもあるのではないでしょうか。
「あなたがたが信仰の働きを示し、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに希望を置いて忍耐していることを、絶えず父なる神の前に思い起こしているのです。」私たちのための祈りです。あまりにも光栄な、もったいないような祈りです。しかし、キリストの教会というのは、こういうところなのだと私は信じています。キリストの愛がここに実っている。それは私たちの心がけや努力の賜物であるというのではなく、ここで神様が生きて働いてくださっているから、私たちはその神のお働きの実りにあずかっていると信じてよいのではないでしょうか。
パウロはこのようにも言います。「神に愛されているきょうだいたち、私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」私も、この点について確信を持って同じように言いたい。私は、皆さんが神に選ばれていることを知っています。洗礼を受けたというのはそういうことです。あるいは洗礼を受けたいと願うのは、そういうことです。私たちは神に選ばれて、信仰に導かれて、今生きている。だから、私たちはこの神の選びを無下にしてはいけません。それは選んでくださった神様に失礼です。神を礼拝し、神様の御前に身をかがめて、私たちは生きていく。主イエス・キリストが再び来てくださるその日まで。私たちはキリストを待ち望みつつ、今日という一日を選ばれた者として生きていきます。

2024年3月29日の聖句

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