2020年9月2日水曜日

2020年9月2日(ガラテヤの信徒への手紙2)

ガラテヤの信徒への手紙2
「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義として頂くためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」
この言葉の背後にある一つの出来事は、ケファ(シモン・ペトロのこと)とパウロとを巡る一つの事件です。アンティオキア教会での出来事です。ここは異邦人伝道の拠点になった教会であり、この教会自身、異邦人とユダヤ人とが共に共同体を形成していました。ケファがこの教会を訪ねたとき、最初彼は異邦人と一緒に食事をしていたが、その後ユダヤ人が来ることを知って彼らの目を恐れ、異邦人から身を引いてしまった。それを見たパウロは公然とケファを非難した。そういう事件です。
これは単に失礼だとか、ユダヤ人に対して弱腰だとか、そういうことではすまない問題が潜んでいるとパウロは見抜きました。従来、ユダヤ人は異邦人と一緒に食事をしません。ではユダヤ人か異邦人かの区別をどこでするのか。役所に行って戸籍をつくるとか、ユダヤ人として登記するとか、そういうことではない。ユダヤ人の条件は、割礼を受けていることです。割礼を受けることで律法を満足させる。それがユダヤ人の条件であり、神の民になるただ一つの方法でした。パウロはそこに福音を歪める問題があると見抜いていました。だから、ケファという主イエスの一番弟子であり教会の第一の指導者を相手にしたとしても、公然と非難しないわけにはいかなかったのです。
私たちは、律法の行いによって神の民になるのではありません。それか、割礼という目に見える徴によってユダヤ人という仲間意識を深め、同質性を深めることでサークルに入るのでもない。ただ神の恵みによってだけ、私たちは神の民に加えられる。私たちは、ただイエス・キリストの真実によって救われるのです。
イエス・キリストの真実によって。新共同訳では「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と翻訳していました。聖書協会共同訳ではイエス・キリストの真実によって義としていただく、と訳が変わった。文法上はどちらも可能です。しかし、ここ数十年の研究を踏まえ、イエス・キリストの真実によって、と訳文が変わった。私たちは、自分の信仰によってさえも、自分を救うことはできません。ただキリストの真実だけが私を救ってくださるのです。
だから、私たちもキリストの真実により頼んで、パウロと共に告白します。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。」キリストの真実が、私たちの人生に「今日」という新しい一日を加えてくださいました。この一日を生きるのは、私の内に生きていてくださるキリストです。

2024年4月24日の聖句

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