2020年9月22日火曜日

2020年9月22日(テモテへの手紙一1〜2)

テモテへの手紙一1~2
「私は、かつては冒瀆する者、迫害する者、傲慢な者でしたが、信じていないときに知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。私たちの主イエスの恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛と共に満ち溢れたのです。『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」

この手紙は使徒パウロが殉教する数年前に、まだ若いテモテに送った手紙です。これに続くテモテへの手紙二と合わせて、あるいはさらに別の人物テトスへ宛てた手紙も合わせて、パウロの遺言のような響きのある手紙だと思います。
そのテモテへの手紙一で、パウロは自分の原点を伝えています。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」。この言葉は、真実だ。一般論として正しいということではなく、この私においても真実だ。私はかつては神を冒瀆し、迫害し、傲慢であったけれど、主イエスの恵みと憐れみによってこの私も救われた。
パウロは自分のことを「罪人の頭」だと言っています。これは、深い自己省察から出た言葉や過去への後悔、自己嫌悪の言葉ではありません。キリストがこのわたしを憐れんでくださって、限りない寛容をもって私をも受け入れ、永遠の命にあずからせてくださった。その圧倒的な事実を前にして、初めて私の罪深さが分かったのです。自分の存在の一番深いところに食い込むまがまがしさ、汚さ、罪深さ。しかし、キリストは寛容にもそれを受け入れてくださった。罪の自覚は、キリストの恵みに圧倒されるときに初めて生まれる。
かつてパウロはコリントの信徒への手紙一で「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と書きました。使徒というのは復活の証人、伝道者の中でも特別な責任を持つ者です。もう少し後年に書かれたエフェソの信徒への手紙では「この恵みは、すべての聖なる者のうちで最も小さな者である私に与えられました」と書いた。聖なる者というのは、神を信じる者のことです。そして、晩年に近いテモテへの手紙では、「罪人の頭」と言っている。使徒の中で最も小さな者、すべての聖なる者の内でもっとも小さな者、すべての罪人の頭。ここにパウロの罪の自覚の深まりを見ることができる。それはとりもなおさず、パウロにおけるキリスト・イエスの恵みへの気付きの深まりを現しているに他ならない。恵みが大きくなるとき自分の罪も大きくなる。しかし、それはキリストに赦された罪です。私たちはキリストの恵みによってもうすでに赦された罪としてしか自分の罪を知ることはできないのです。キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られたのです。

2024年4月24日の聖句

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