2020年9月23日水曜日

2020年9月23日(テモテへの手紙一3)

テモテへの手紙一3
「まぎれもなく偉大なのは、敬虔の秘儀です。すなわち、
キリストは肉において現れ
霊において義とされ
天使たちに見られ
諸民族の間で宣べ伝えられ
世界中で信じられ
栄光の内にあげられた。」

敬虔の神秘。神秘という言葉はギリシア語のミュステーリオンという単語です。音を聞いて明らかなように、英語のミステリーの語源になった言葉です。神秘、秘密、秘儀、奥義といった意味があります。敬虔のミステリー、秘密。それがここに明かされている。すなわち、敬虔の秘密とはキリストがいかなるお方なのか、ということに他ならない。
キリストは肉において現れました。私たちの生活の実感からあまりピンとこない言葉だと思われるかも知れません。しかし、とんでもないことです。キリスト、神の子でいらっしゃる方が肉において現れた。肉というのは、私たちと同じ体だということです。神様ご自身でいらっしゃる方が私たちと同じ肉体になって私たちの間に現れた。
神様から御覧になったら、私たちなんて最低のウジ虫よりもなお汚れたものに過ぎないと思います。想像が付かない。それなのに、神の子が最低の唾棄すべき私と同じ肉体をとって私たちの間に現れたのです。神様はこの世の最低なもの、捨てるべき汚れたもの、誰もが憎んで排除しようとするものに連帯してくださる方です。そこにキリストの神らしさが現された。
このキリストは霊において義とされました。このキリストの振る舞いは義しいと神がお墨付きをお与えになったということです。イエスの私たちと同じ人間としての肉体は十字架につけられ、裁かれました。そのキリストの肉体を神が死者の中から復活させ、霊において復活させた。イエスの十字架の裁きへの神の判決は、復活でした。肉において現れたキリストを、神が義としたのです。
このキリストが諸民族の間で宣べ伝えられている救い主です。私たちがあずかった福音であり、私たちが耳にした神の愛の言葉です。私たちはこの方を信じ、この方の栄光を仰いで天に向かって祈ります。
敬虔の神秘。それは、あくまでもキリストです。私たちの敬虔な気持ちや研ぎ澄まされた宗教的感性ではありません。キリストこそが秘儀、奥義です。キリストが肉を取って十字架に着けられ、復活させられ義とされた。このキリストに私たちの敬虔はかかっているし、そうであるからこそ私たちは大丈夫です。キリストに私たちの敬虔が守られているのですから。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...