2020年10月24日土曜日

2020年10月24日(ヨハネによる福音書5:1〜18)

ヨハネによる福音書5:1~18
「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
私は、自分が、主イエスのこういう言葉をあまり真剣に聞いていなかったと思います。主イエスと出会うと言うことは、私たちの生き方が変わるという出来事を必然的に生み出します。主イエスと出会ったら新しい存在に生まれ変わるのですから。
この言葉をここで聞いた人は、ベトサダの池の畔いました。38年間病気で苦しんでいた。時々この池に天使が降りてきて水を動かす、その時真っ先に水に入れば癒やされるという民間信仰を頼りに、この場所にいたのです。この池の畔は完全なる競争社会です。「いちばん」以外は意味を持たない。勝ち組と負け組社会です。現代社会の姿がそのままここに映し出されていると思います。
そして、肝心なことはそれだけではないと思います。ここは神なき社会でした。もちろん天使が水を動かしに来ると信じていたという意味では、神様を信じていたでしょう。そもそも彼らはユダヤ人でしたから、神を信じていないなどということは考えられない。ところがこの池の畔の実際の行動原理は神なき社会のそれです。
主イエスが出会ったのは、神なき社会で38年間負け続けた男です。負け組に甘んじ続け、しかも、一人も仲間がいない男です。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。」本当に私たちを辛い所に追い込むのは、私を助けてくれる仲間がいないという事実なのかもしれません。
主イエスは、そんな男と出会いました。そして、彼が自分の足で立つことができるようにしてくださいました。「起きて、床を担いで歩きなさい」と主イエスは彼に、私たちに言われます。この言葉は、私たちを神なき社会から神の支配する神の国へと連れ出す言葉です。だから、主イエスは言われます。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない」と。私たちはもうキリストと出会い、神の国に生きている。だから、神なき者として神なき社会の原理に従って生きるのではなく、神の国を、神に支配されて生きる。それが自然な生き方なのではないでしょうか。罪を犯すというのは倫理道徳の話ではなく、神を無視して生きるということです。私たちは、神の前に生きている。キリストとの出会いが、私たちの生を神の前においてくださったのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...