2020年10月25日日曜日

2020年10月25日(ヨハネによる福音書5:19~47)

ヨハネによる福音書5:19~47
「あなたがたは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を調べているが、聖書は私について証しをするものだ。それなのに、あなたがたは、命を得るために私のもとに来ようとしない。」
今朝の箇所は、聖書とは一体何かと言うことを私たちに語りかけているように思います。今から一世紀以上も前ですが、キリスト教界の大きな関心は「聖書とは何か」ということでした。聖書とは何かという見解(聖書観と言います)を巡って、対立が深まりました。ある人は聖書が神の言葉であるということを絶対視し、ある人は聖書は歴史の中で人間が書いたという事実から始めようとします。聖書は神の言葉であるということも、聖書は人の言葉であると言うこともどちらも正しい言い分です。歴史の中で日付が付くどこかの時点で、具体的な人物たちの手を通してかかれた文書が教会に受け入れられ、神の言葉として聞かれた。神様ご自身の語りかけをそこで聞き、礼拝を献げてきた。聖書は人の言葉であり、かつ、神の言葉です。もしかしたら、聖書観を巡る対立が起こるのは必然的ですらあったのかもしれません。
しかし今朝の主イエスのお言葉は、そういう対立のつまらなさに気づかせます。聖書にとって一番大切なのは、そういう「聖書についての議論」ではなく、聖書それ自体が何を語っているか、聖書が私たちにどういう出来事を起こそうとしているか、ということです。「聖書は私について証しをするものだ」と主イエスは言われます。聖書はキリスト御自身を語っている。私たちをキリストに出会わせようとしている。そのキリストから福音が響いている。私たちが福音を信じ、救われるために、聖書は私たちに語りかけている。そういう意味での信頼こそ、聖書を読むときの急所です。
それでは、そのキリストの福音とは何か。「よくよく言っておく。私の言葉を聞いて、私をお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁きを受けることがなく、死から命へと移っている。」キリストは私たちに永遠の命を得させるために、私たちが父なる神を礼拝するように、語りかけておられるのです。
ですので、聖書の聖書にふさわしい読み方、それは、神を礼拝するために読むということなのではないでしょうか。キリストと出会うために読むということではないでしょうか。聖書は、そのようにして耳を傾ける者に、無尽蔵な宝であるキリストの福音を語りかけているのです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...