2020年10月7日水曜日

2020年10月7日(ヤコブの手紙3)

ヤコブの手紙3
「舌を治めることができる人は一人もいません。舌は、制することのできない悪で、死をもたらす毒に満ちています。私たちは舌で、父なる主をほめたたえ、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪っています。同じく力、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあてはなりません。」
こんなにも鋭く、胸に突き刺さるような言葉が他にあるのでしょうか。舌は、制することのできない悪。これに先立って、舌は馬を御するためのくつわ、船を操作する舵のようなものだと言います。舌が私たちの全身を操作し、私たちを過ちに向かわせてしまう。舌は大きな森を燃やしてしまう小さな火のよう。舌は不義の世界、、焼き尽くす地獄の火。
パウロがこれまで丁寧に語ってきた私たちの行いを伴う信仰も舌の語る言葉によって操作されてしまうほどに舌は強烈な力を持ち、そこから飛び出してくる私たちの言葉は、私たちの悪の姿そのものです。
ヤコブ自身、「あなたがたの多くは教師になるべきではありません」と言っているとおり、言葉を語る者の罪深さに打たれていたのだと思います。ヤコブ自身、自分の罪と向き合わないわけにはいかなかったのだと思います。自分の口から出てきた言葉と向き合うことほど辛いことはないのではないでしょうか。
しかし他方で、私たちの信仰は言葉によって成り立ちます。聖書も言葉、祈りも賛美も言葉。私たちには言葉を拒んだところでの瞑想をするという習慣はありません。聖書という言葉を読み、言葉に導かれて黙想し、言葉で祈ります。そこでは常に自分の罪深さや欺瞞、傲慢、虚偽、そういったものに向き合わないわけにはいかない、ということを意味する。しかし同時に、その罪深い私とキリストが連帯してくださったという憐れみを深く覚えるということでもあります。私たちは自分の言葉を通して罪の醜悪さを知り、言葉を通してキリストの赦しのありがたさをかみしめ、御言葉ご自身でいらっしゃるキリストによって救われるのです。私たちの言葉をも、このお方は清めてくださるに違いありません。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...