2020年11月10日火曜日

2020年11月10日(ヨハネによる福音書13)

ヨハネによる福音書13
「それで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」

少し前にもご紹介しましたが、マルチン・ルターは95箇条の提題の冒頭で、主イエスを「私たちの主であり師であるイエス・キリスト」とお呼びしています。今日の主イエスさまご自身のお言葉が典拠になっています。私たちはイエスを主とお呼びすることは普段からしていますが、この方は私たちの主であるだけではなく、師です。お師匠さまです。いかなる意味において師匠でいらっしゃるのか。イエスご自身が明確に言っておられます。「それで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。」このお方は、私たちが互いに足を洗い合うことにおける師匠です。
主イエスは、弟子たちの足を洗ってくださいました。足を洗うのは奴隷の仕事でした。家に主人が帰ってくると奴隷が桶に水を汲んで出迎え、主人の足を洗い、手ぬぐいで拭き取ります。主イエスは弟子たちの奴隷になって、身をかがめて足を洗い、ご自分の腰に巻いた手ぬぐいでその足を拭いてくださったのです。
その時の主イエスのお心をヨハネは「イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」と伝えています。この人も主イエスに足を洗っていただいた。イエスを裏切ったイスカリオテのユダもいました。この席上で、主イエスはユダの裏切りを予告し、ペトロの裏切りを予告しました。しかし、主イエスの最後まで貫かれた愛は弟子たちの裏切りによってなくなってしまうことがなかった。主イエスは、彼らの前に身をかがめて足を洗ったのです。
主イエス・キリストは、私たちの師匠。愛の師匠です。へりくだりの師匠です。奴隷としての模範を示してくださった師匠です。私たちはキリストに倣って、互いに愛し合い、互いに仕え合う奴隷になります。キリストがしてくださったように。
私たちはしょっちゅう愛において失敗します。時に、取り返しのつかない失敗もしてしまいます。しかし、そんな私の足を洗うことを、主イエスは拒否なさらないのです。私のことをも、愛して、最後まで愛し抜いてくださるからです。このキリストの愛が、私たちの今日一日に先立っていてくださいます。

2024年4月24日の聖句

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