2020年11月17日火曜日

2020年11月17日(ヨハネによる福音書19:1~22)

ヨハネによる福音書19:1~22
イエスは茨の冠をかぶり、紫の衣を着て、出て来られた。ピラトは、「見よ、この人だ」と言った。

ピラトは取り調べでイエスの罪を一つも見出すことができず、人々にイエスの無罪放免を告げようと、イエスを人々の前に立たせました。ピラトはイエスを指して言います。「見よ、この人だ。」
このピラトの言葉は、「見よ、この人だ」という言葉のラテン語訳である「エッケ・ホモ」という言葉でよく知られるようになりました。この場面を題材にした絵画もたくさんあります。「見よ、この人だ」、あるいは「この人を見よ」とも訳せるようです。私たちも、この人を見なければなりません。この方は、侮辱を込めて王と呼ばれ。、紫の王の衣を着せられ、茨の冠をかぶせられました。ユダヤ人はイエスが神の子と自称している、だから死罪だと訴え、叫びました。しかし、しっかりとこの方を見たとき、そこには死刑になる理由も、それどころか何の罪も見出すことはできないのです。私たちは、見なければなりません。私たちが狂ったように「十字架にかけろ」と叫び倒すこの方こそが、本当に神の子なのだという事実を。
「見よ、この人だ」民衆の前にイエスを立たせたピラトは、恐らく当初はイエスを無罪放免にできると思っていたのでしょう。民衆を説得できる目論見だったに違いない。しかし、人々はピラトの立場を逆手に取ります。この男は王であると自称したのであって、赦すことは皇帝に対する反逆に他ならないと訴えます。「私たちには、皇帝のほかに王はありません」とまで、祭司長たちは言ってしまいました。ついに、ピラトはその声に屈しました。
ピラトがしたことは、歴史上最も愚かな衆愚政治です。究極のポピュリズムです。祭司長立ちも、言うに事欠いて「私たちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言ってしまった。信仰の筋を曲げてでもイエスを十字架につけた。ピラトも、祭司長らも、ほかのユダヤ人も、誰もこの人を見なかったのです。私たちには見えているでしょうか、この人のことが。
今日一日の私たちの歩みが祈りの道づくりであり、この方を見つめる祈りの歩みをするものでありますように。主の憐れみ深い導きを、心から祈り求めます。

2020年12月1日(ヨハネの黙示録1)

ヨハネの黙示録1 見よ、この方が雲に乗って来られる。 すべての人の目が彼を仰ぎ見る。 ことに、彼を突き刺した者たちは。 地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ。 然り、アーメン。 聖書の最後に収められている、ヨハネの黙示録を読み始めます。1:1には「イエス・キリストの黙示」とありま...