2020年12月27日日曜日

2020年12月27日(ルカによる福音書2:41〜52)

ルカによる福音書2:41~52
両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」しかし、両親には、イエスの言葉の意味が分からなかった。

ヨセフとマリアは毎年、過越祭にはエルサレムへ行っていました。ユダヤ人としての信仰者の義務を果たしていた。イエスが12歳になった年の過越祭にも、やはり一家で旅しました。エルサレムについて礼拝をし、皆と一緒に帰路に就いたとき、イエスは一人エルサレムに残っていました。両親は気づかなかった。イスラエル中の人がエルサレムに集まっていましたから、家路もたくさんの人が連れ立って歩いていました。両親はイエスが一行の中のどこかにいると思い込んでいたのです。三日後になってようやくイエスがいないことに気づきました。イエスを捜しながら戻り、ついにエルサレムまで戻って、神殿で教師たちと話しているのを見つけたのです。
「なぜ、こんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです。」マリアは息子にいいました。迷子になったのだから、厳しく叱らないといけない。それなのにイエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」と言う。両親がこの言葉の意味が分からなかったのも、当然のように思えます。子育てをしながらこの話を読むと、なんとも身につまされます。ヨセフとマリアがかわいそうな気がしてしまいます。子どもが迷子になれば、両親はどんなに心配することでしょうか!
しかし、きっと本当に迷子だったのはイエスではなく両親の方です。イエスが神の子であるということを見失っていたのです。「私が自分の父の家にいるはずだ」というのは、ただの12歳の息子の言葉として聞けばあまりに生意気ですが、本当に神の子である方の言葉だとすれば、当然のことです。両親は、イエスが神の子だという真実を見失っていたのです。
マリアにすれば自分が産んだ子、ヨセフも父として育ててきた息子です。その相手が神の子だとわきまえるのは大変なことです。私たちは彼らと同じ意味でイエスと接することはないのかもしれませんが、しかし私たちの毎日の営みの中で神さまとの関わりを見出すという意味では、同じ問いを受けているのだと思います。私たちの目の前にいる人も、神さまが愛し、尊んでいる人です。私たちの目の前の人に現れる神の御業を、私たちも目を開いて見つめ直したいと願います。

2024年4月26日の聖句

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