2020年12月28日月曜日

2020年12月28日(マタイ1)

マタイによる福音書1
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
これは、「神は我々と共におられる」という意味である。

神は我々と共におられる。それは、私たちが思っている以上に確かな事実です。
新約聖書の最初におかれているマタイによる福音書。その始まりは、私たちにとってはなじみやすいとは言いがたいものです。聖書を開くと途端にカタカナの名前の羅列を読まされます。旧約聖書を読んでいれば知っている名前もありますが、聖書を初めて手に取る人にとってはほとんど暗号のようなものです。ただ、最初にこの福音書を読んだであろうユダヤ人にとっては、大きな意味を持っていたようです。以前、イスラエルに旅行をした人から、入国時に書く書類の中に、自分の名前と一緒に父親の名前を書く欄があったと聞いたことがあります。(今でもそうなのでしょうか?)彼らにとって父は誰なのか、自分は誰の子なのかということには独特な意味がある。
しかし、そうであるのならば、この系図はユダヤ人や父権的な文化に生きる人にとってだけ意味があるということなのでしょうか。そうではないと思います。この系図に登場する人たちの名前を見ていくと、これは失敗した人たちの系図であることに気付きます。もっとはっきり言えば、罪人の系図です。例えば、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。他人の妻に自分の子どもを産ませた。このときダビデは王さまでした。その上、ダビデはウリヤの妻のバト・シェバと密通した後、夫ウリヤを戦場でわざと戦死させています。姦淫だけではなく殺人まで犯した。一人ひとりの名前を見ていくと、そのような過ちはダビデだけの問題ではありません。
イエス・キリストはそういう系図に名前を連ねました。救い主はダビデの家から出る、王の系統を引く。イスラエルの人たちはそう信じていましたし、その通りになりました。しかし一見すると華々しく見えるその系図の実態は、罪人の名前が連綿と続く系図です。罪人の系図にイエスがご自分の名前を連ねたのです。
神は我々と共におられる。それは、どうしようもなく罪深く、救いようもない私と共にいてくださる、ということです。こんな私を見捨てず、見放さず、それでも救ってくださる。それが、神は我々と共にいてくださるという事実が意味することなのです。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...