2021年1月18日月曜日

2021年1月18日(詩編22)

詩編22
すると、あなたは私に答えてくださった。(22節)

詩編第22編。この詩編ほどの深い嘆きは他にないのではないでしょうか。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか。私の嘆願の言葉は救いから遠い。」神に見捨てられた。祈りも願いも、神に届いていない。そう言わざるを得ない。どんなに祈っても叫んでもいっこうに答えがない。それでも、黙るわけにはいかない。
人々は私を嘲り、蔑む。「私は虫けら、人とは言えない」とまで言います。何よりも辛いのは、自分が信じる神を引き合いに出して罵ることだったのだと思います。人々が言うのです。「主に任せて救ってもらうがよい。主が助けだしてくれるだろう。主のお気に入りなのだから」と。これまで自分の信仰の先輩たちは神に救われ、助けられて生きてきた。聖書にはそういう出来事がたくさん書いてある。あるいは、自分自身のこれまでの人生を振り返っても、神のご配慮はたくさんあった。「まさにあなたこそ、私を胎から取り出した方、母の乳房に預けた方。母が身ごもったときから私はあなたに託されていた。母の胎にいたときから、あなたは私の神。」私は生まれる前から神の御手の中にいた。
しかし、今の私の現実は違うのです。神さまは今は自分のことは助けてくれないし、救ってもくれない。信じていることと現実とのギャップが、苦しみを一層大きくしているのです。
私たちにとって詩編22は主イエス・キリストが十字架の上で叫ばれた詩編です。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのか」という叫びは、何よりも先ず主イエスご自身の叫びとして私たちは知っています。神に捨てられる絶望、信じていることと現実とのギャップ、神さまがまったく見えない現実。キリストは神に捨てられた現実を誰よりも深く知り、神に捨てられた者として陰府に降って行かれたのです。
この詩編は23節からまったく違う彩りをもつ詩編に代わります。「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝え、集会の中であなたを賛美しよう」と言っている。その転換点は前半部の最後の言葉にあります。「すると、あなたは私に答えてくださった。」前半の深い絶望の祈りの言葉の最後の最後に「あなたは私に答えてくださった」とある。しかし、実際に何が起きたのか、どう答えてくださったのかは書かれていません。もしかしたら、目の前の現実は何も変わっていなかったのかもしれません。しかしそれでも、神が私に答えてくださること、この祈りがちゃんと神さまの御前に届いていることを、この信仰者は確信したのではないでしょうか。私たちもそのことを信じることができる。それは、キリストがこの詩編の叫びを誰よりも深く味わって十字架の上で死に、陰府に降り、復活したからです。神さまの答えは、ちゃんとあるのです。キリストが私の代わりに神に捨てられた。だから、あなたが神に捨てられることは、ありえないのです。

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