2021年8月30日月曜日

2021年8月30日の聖句

災いあれ、謀を主に深く隠す者に。彼らの所業は闇の中にある。彼らは言う。「誰が我らのことを見ているか。誰が我らのことを知っているか。」(イザヤ29:15)
すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。(エフェソ5:13)

誰も見ていなければ、ちょっとくらい良いかな。そういう誘惑は誰にでも襲ってくるのではないかと思います。特に「恥」を基準にして考えると、恥ずかしい思いをしなくて済むような状況であれば何をしたって構わないということになりかねません。そうでなければ、周りの人がやっているから良いか、となるかもしれない。しかし人目に恥をかくかどうかということではなく、神さまの目にどう映るのかということを基準にすると、生き方が変わります。「すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。」私たちは神さまの御顔の光の中を生きているのです。
私たちの教会はカンバーランド長老教会さがみ野教会と言いますが、長老教会と呼ばれる教会の仲間たちの一つのモットーに「コーラム・デオ」という言葉があります。ラテン語で「神の前に」という意味です。私たちは神さまの御前に生きている。そのことをモットーとし、いつもそのことを大事に覚えて生きる。
日本語には「旅の恥はかき捨て」という言葉があります。明鏡国語辞典では「旅先では知人もいないので、ふだんなら恥ずかしくてできないような行いも平気でするものだ。」という語釈があります。普段の知り合いばかりの場所では抑制されていたことを、恥というたがが外れるとしてしまうことがある。神の前ではなく人の前に生きる姿です。
ただ、神の前に生きるというのは、単に悪いことも神さまが見ているぞということだけではないと思います。今日の御言葉には「すべてのものは光にさらされ、明らかにされます」とありました。私たちは光の中にいる。それは闇の行いを照らして明らかにする光でもありますが、同時に、私たちを闇から光に連れ出す光でもあります。私たちは暗闇の中にうずくまる闇の子ではなく、キリストという光に照らされた光の子です。神さまの御前に生きるというのは、光に照らされる喜びをもたらします。私たちは謀や自分のことばかりの所業ではなく、神の愛を映す神の子として生きることができるのです。そのために、キリストが私たちを光に照らしてくださったのです。

2024年5月2日の聖句

(主の言葉)もし、わが民が私に聞き従うならば。(詩編81:14) あなたがたは揺るぐことなく、しっかりと信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。(コロサイ1:23) 主なる神さまは、私たちが主に聞き従うことを願っておられる。聖書はそうはっきりと言い...