2025年8月30日土曜日

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16)
時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8)

熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。本人のことだけではなく、ある人は家族の病のための悩みを抱いている。若い人は進路を求めているでしょう。いろいろなことのために、私たちは祈りを必要としています。教会はお互いのために祈る者たちの共同体です。私たちの神が私たちに最もよいことをしてくださると信じて、私たちは神に祈ります。癒しを求め、解決を求めて。
パウロもプブリウスの父親のために祈りました。神はその祈りを聞き入れて彼を癒やしてくださいました。私たちも同じように教会生活を送っています。それは神が必ず祈りを聞いてくださる方だと信じ、信頼しているからです。「主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。」これは、私たちの祈りでもあります。
新約聖書のヤコブの手紙にこんな言葉があります。「あなたがたの中に病気の人があれば、教会の長老たちを招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」ここでのオリーブ油というのは、恐らく祈りの象徴のような意味合いだと思います。私たちはオリーブ油は塗ってはいませんが、互いのために祈る営みを続けていることには何ら変わりがない。
私たちもお互いに祈りを求めましょう。仲間に祈ってもらいましょう。そして、仲間のために祈りましょう。そのようにして神の家族として私たちは練られていくのです。

2025年8月29日金曜日

2025年8月29日の聖句

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。(イザヤ37:16)
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:3)

天と地とそこに満ちるすべてのものは神がお造りになった。しかも、言によって。そのように、今日私たちに与えられた聖書の御言葉は証言しています。
ヨハネによる福音書第1章を読んでみると、この「言」とは、主イエス・キリストのことであると言っています。神の言そのものでいらっしゃるイエス。イエスというお方によって示された神ご自身の御心、その知恵、福音。そのような「言」において、神はこの世界をお造りになりました。
ですから造られたものである私たちは、神の言を待ち望む存在です。私たちは神の語りかけに向かうものとして造られました。主イエス・キリストによって私たちに示された福音に向かって開かれた者として、私たちは命を与えられているのです。
ですので、私たちは今日も御言葉に耳を傾けます。神の語りかけこそが私たちの命そのものであると信じ、神に向かって生きるために、私たちは祈ります。神ご自身の霊によって私を照らしてくださって、神の言葉を聞き、神に従って生きる者にならせてください、と私たちは祈る。それが私たちの自然な生き方であるはずです。
「あなただけが地上のすべての王国の神であり」と言っています。この世界のすべてを、神はご自身の言によって創造なさいました。世界が神の語りかけを待っている。この世界のすべてがキリストの福音を待っている。神に向かう世界の憧れが、渇きが、あなたにも見えるでしょうか?

2025年8月28日木曜日

2025年8月28日の聖句

あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる。(イザヤ62:3)
(イエスの言葉)あなたがた招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、「友よ、もっと上席にお進みください」と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。(ルカ14:10)

主イエスのこのお言葉ですが、もしも、後で上席を勧められることを期待してとりあえず末席に座っているのだとしたら、何の意味もないのだと思います。主イエスは徹底して謙ることを求めておられる。人からの誉れを受けること、自分が重んじられるのを期待することを止めろ、とおっしゃっているのだと思います。人からの誉れを期待せず、ただ神の誉れとなることだけを求めよ、とおっしゃっているのではないでしょうか。
今日の旧約の御言葉には「あなたは主の手の中で誉れある冠となり、神の手のひらの上で王冠となる」と書かれています。なんと美しく、素晴らしい御言葉でしょうか。神が御手の中で私たちをご自身の誉れとしてくださる、と言っています。あまりにもったいない御言葉です。主は、神がくださるこの栄誉だけを求めるように、と教えてくださいました。
そうは言っても、神さまは見えませんし、人が褒めてくれる言葉や自分を重んじてくれる態度は気持ちの良いものです。やっぱりそれを求めてしまいます。そんな私たちの前に、ご自身が底の底まで徹底して謙り尽くされたお方がおられます。飼い葉桶に生まれ、十字架にまでかけられた神の子がおられます。キリストは、ご自分の歩まれた道へと私たちを招いておられるのです。

2025年8月27日水曜日

2025年8月27日の聖句

子をいとおしむ父のように、主は愛する者を懲らしめる。(箴言3:12)
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。(ルカ15:32)

「喜び祝うのは当然ではないか。」失われた息子の譬え話の父、すなわち神さまは、ここで「当然」とおっしゃいます。死んでいたのに生き返った息子、いなくなっていたのに見つかった「お前のあの弟」のことを喜び祝うのは当然ではないか。
ところが兄息子にとっては、父の当たり前は自分の当たり前ではありませんでした。帰って来た弟を拒み、息子の生還を喜ぶ父を受け入れられませんでした。兄から見て父は不公平で不公正でした。
「子をいとおしむ父のように」と聖書は言います。神は私たちを父のように慈しんでくださいます。それどころか、どんな人間の父よりももっと深くいとおしみ、深い憐れみをもって愛してくださいます。神さまのその深い御心は、私たちにとっては時として受け入れがたく、不公正です。神さまの愛は私たちにとっての「当然」からは大きく外れているのです。
神さまの「当然」とおっしゃる深い憐れみを喜ぶ私でありたい、と願います。神さまが、どんなものであっても愛して当たり前だとおっしゃるのを受け入れて、一緒に喜ぶ私でありたい、と願います。神の喜びが結び合わせ、一つとしてくださる共同体こそ、教会です。神が深い憐れみをもって喜んでくださっている者たち、それが私たちキリスト教会です。私たちからしたら常識を外れている神の喜びだけが私たちを生かしているのです。

2025年8月26日火曜日

2025年8月26日の聖句

主はあなたを守る方。
主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
昼、太陽があなたを打つことはなく、
夜、月があなたを打つこともない。(詩編121:5~6)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。(フィレモン3)

まだまだ毎日暑い日が続きます。「昼、太陽があなたを打つことはなく」という御言葉が身に染みます。荒れ野を歩いた聖書の時代の人々も、同じように思っていたのではないかと思います。神が昼に照りつける太陽から私を守ってくださらなければ、どうして私は生きることができるだろう!
それだけではなく、夜の話もしています。「夜、月があなたを打つこともない」。月は、昼の太陽が肉体的な苦しみを象徴するのに対して、精神的な苦しみを象徴しているのではないか、と思います。心を幻惑し、不安定にする月の光。そういうイメージなのでしょう。しかしそこからも神が守ってくださる。だから、私は生きられる。
「主はあなたを守る方。主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。」主なる神に守られて、私たちは生きています。旧約聖書の時代に生きた人々も、主イエスと共に歩んだ弟子たちも、その後の2000年間の教会の歴史でも、無数の信仰者を神が陰となって覆い、昼の太陽からも夜の月からも守ってくださいました。そして、私たちのことも。
「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。」あなたのためのキリストの恵みと平和が今日もありますように。心から祈ります。

2025年8月24日日曜日

2025年8月24日の聖句

今週の聖句:
幸いな者
主を神とする国民
主がご自分のものとして選んだ民。(詩編33:12)

今日の聖句:
私たちはあなたの民、あなたの牧場の羊です。
とこしえにあなたに感謝し
代々にあなたの誉れを語り伝えます。(詩編79:13)
(イエスの言葉)私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。(ヨハネ10:14)

私たちはあなたの牧場の羊、と言っています。こういう言葉を聞くと、どこか牧歌的で穏やかなイメージを抱いてしまいがちですが、実情はそうではないと思います。それは羊飼いの仕事が厳しい自然を相手にしながら羊を養うことであるということに思いをいたせば当然のことであるかもしれません。この詩編でも、今日の箇所に先立つ10節ではこのように言われています。
「なぜ、国々は言うのでしょうか。『彼らの神はどこにいるのか』と。国々の中で私たちに示してください。僕らの流した血に対する報復を。」
このような言葉に耳を傾けるだけで、どれほど激しく厳しい戦いの中に身をさらしていたのか、ということが伝わってきます。そのような中にあってもなお、「とこしえにあなたに感謝し、代々にあなたの誉れを語り伝えます」と告白している。それほど深く神を信頼している。
「私は良い羊飼いである」と語りかけてくださるキリストのお言葉の深みは、このような詩編の御言葉からもよく伝わってきます。しかもキリストは「私は羊をよく知っており、羊も私を知っている」と言われます。キリストと私たちとの篤い信頼関係を、主は本当に大切にしてくださる。何があっても、この関係が壊れてしまうことは決してない、とキリストは言ってくださるのです。

2025年8月23日土曜日

2025年8月23日の聖句

あなたは私のために銀を払って菖蒲を買うこともなく
いけにえの脂肪で私を満足させることもなかった。
かえって、あなたの罪で私に労苦させ
あなたの過ちで私を疲れさせた。
私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。(イザヤ43:24~25)
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」(ヨハネ5:17)

突然「菖蒲」が登場していて何のことかと戸惑いますが、出エジプト記第30章22節を見ると、菖蒲が最上の香料の一つとして登場しています。神に燃やして献げる香の一つでした。礼拝でのささげ物です。脂肪も同じように焼いて神に献げるものですが、こちらは明らかに高価な物です。菖蒲や脂肪は、それらを神に献げて礼拝するためのものです。
ところがそのように神を礼拝すること、自分の懐を痛めて神にささげ物をすることもしようとせず、自分の罪を悔い改めて神の前に身をかがめることもなく、神を疲れさせている、と言われています。私たちは、自分の罪を真剣に悔い、生き方を改めることをしているのか。そう問われ、神ご自身がその問に答えておられます。私たちは誰も、神が欲しておられる真剣さをもってそれをしていない、と。
しかし、神は今日も働いてくださっています。「私の父は今も働いておられる」とキリストは言われます。だから、キリストご自身も働いておられる。何のために?「あなたの背きを消し去り」と言われます。私たちの罪を消し去るため、私たちを救うために、神は今日も働いてくださっています。
この事実を、畏れをもって覚えましょう。神の御前に謙って、この事実を受け入れましょう。私たちよりも先に、神ご自身が働いてくださっています。私たちの思うところに先立って、神ご自身の御心によって神は働いてくださっています。「私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪を消し去り、あなたの罪を思い起こすことはない。」

2025年8月22日金曜日

2025年8月22日の聖句

今、主への畏れがあなたがたの上にあるように。気をつけて行いなさい。私たちの神、主には不正も、偏り見ることも、賄賂を取ることもない。(歴代誌下19:7)
主に喜ばれるものが何かを吟味しなさい。(エフェソ5:10)

人を偏り見る。これほど私たちにとって身近な罪が他にあるだろうか、と思います。世間で立場のある人、「偉い人」と目されるような人、重んじられている人を前にしたとき、本当にごく自然と緊張したり、丁寧な態度になったりします。それ自体は良いのかもしれませんが、問題は、世間で軽んじられている人や自分よりも目下の相手(と思っている人)などを前にしたとき、いつの間にか自分も相手を軽く扱ったり丁寧でなくなったりしているのではないか。この人であればそれほど丁寧でなくても良いと思ってしまっているのではないか。そのように自分に問いかけてみると…私はとても苦しくなります。
新約聖書のヤコブの手紙にこのような言葉があります。「あなたがたの集会に、金の指輪をはめ、きらびやかな服を着た人が入って来、また、汚れた服を着た貧しい人が入って来たとします。きらびやかな服を着た人に目を留めて、『どうぞ、あなたはこちらにお座りください』と言い、貧しい人には、『あなたは、立っているか、そちらで私の足元に座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、悪い考えに基づきて裁く者になったのではありませんか。」
主がお喜びになるのは、どのようなあり方なのでしょうか。主は不正をなさらず、人を偏り見ることも、賄賂を取って裁きを曲げることもなさいません。主を畏れ、主の御前に恥じるべきことをせず、主に喜んで頂ける私でありたいと願います。その道は果てしなく遠いとしか思えませんが、主の憐れみを求め、十字架にかけられた主イエスさまを見つめて生きていきたいと願います。

2025年8月21日木曜日

2025年8月21日の聖句

(神の言葉)土から取られたあなたは土に帰るまで額に汗して糧を得る。あなたは塵だから、塵に帰る。(創世記3:19)
自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。(ガラテヤ6:8)

私たちは土の塵から取られたものに過ぎず、やがては死んで再び土の塵に帰ります。その時まで労苦して働き、得るものは僅かでしかありません。中には多くの財を築く人もいますが、それが神の前に一体どれほどのものでしょう。私たちには、自分の寿命を僅かでも延ばすこともできません。そんな自分の分際をわきまえることの方がよほど価値があるのではないでしょうか。
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」
自分の肉に蒔くというのは、自分の欲望を満足させるとか、自分が儲かることを考えるとか、他人のことを考えないとか、今だけ・ここだけしか思わないとか、そういった意味合いであると思います。それに対して霊に蒔くというのは、善を行うこと、隣人を愛すること、そして何よりも神を畏れ、へりくだって神を崇めることです。
私たちには土の塵から取られたもの、肉に過ぎない存在、ただの人間です。そのような私たちに、神さまは、神さまを慕う心、憧れを与えてくださいました。自分のためではなく、神とキリストのため、隣人のために生きるように、私たちを招いておられます。土の塵に過ぎない私たちが永遠なる神に憧れ、神を愛する霊の人として生きるように、神は今日も私たちの口に祈りを授けてくださっています。キリストを愛し、キリストを求め、「霊から永遠の命を」刈り取る者として歩ませて頂きましょう。

2025年8月20日水曜日

2025年8月20日の聖句

人間の子は息のようなもの。
人の子は欺き。
秤にかけられれば共に息よりも軽い。(詩編62:10)
宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。(マタイ6:20~21)

今日与えられている旧約の御言葉ですが、この詩編を冒頭から読んでみると、例えば4節には「いつまでお前たちは人に襲いかかり、一団となって殺すのか」とあり、5節では「彼らは人をその地位から引きずり下ろそうと謀り、偽りを喜び、口で祝福し、腹の底では呪う」と言っています。ですから今日の御言葉で「人間の子は息のようなもの。人の子は欺き」と言っているのは、人間の言葉や行いに隠された暴力や悪意、虚偽に苦しんでいる者の嘆きを現しているのだと思います。しかも、「一般的に言って人は嘘をつく」とか「人間には暴力的な傾きがある」とか言っているのではなく、実際にそのような目に遭わされて苦しんでいる人の声であるのでしょう。
この詩編は、それに対して「私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。私の希望は神から」(6節)と言って、神だけに救いを求めています。今日の新約でも、主イエスは、人間の造り出す社会が不正や悪に満ちていることを一つの前提としつつ、天の神のみもとに宝を積むように、と言っておられます。
私たちはどこに目を向け、何を重んじて生きるのでしょうか。私たちを本当に生かし、私たちを支えてくださるのは主なる神さま。その事実により頼んで生きよう、と聖書の御言葉は私たちを励ましているのではないでしょうか。

2025年8月19日火曜日

2025年8月19日の聖句

天が煙のように消え失せ、地が衣のように擦り切れ
そこに住む者たちは、ぶよのように死ぬ。
しかし、私の救いはとこしえに続き
私の正義は挫けることはない。(イザヤ書51:6)
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。(1コリント13:10)

今日の旧約の御言葉は、自然災害ではなく戦禍の話をしています。人間の争いのためにたくさんの人が殺され、天も地もその形を失い、秩序がメチャクチャにされてしまうような恐ろしいことが起こる。事実、人間の歴史はそのようなことを繰り返してきました。
可能であればぜひ聖書を開いて、今日の御言葉の前後にあるイザヤ書第51章4から8節をお読み頂ければと思います。神さまは私たち人間が生み出すそのような悲惨の中にあっても、「私の救いはとこしえに続き」とおっしゃいます。あるいは、「私の正義は近く、私の救いは現れた」(5節)と、「私の義はとこしえに、私の救いは世々に続く」と言ってくださいます。
私たち人間の営みは、それがどんなに立派に見えても不完全ですし、それだけではなくどうしようもない罪を抱え込んでいます。平気で他者を傷つけるし、全体のシステムの維持のために弱い者を犠牲にします。そのような者が神の裁きの下にないはずがない。神は必ず義を実現なさる、とこしえに義を果たされると私たちは信じます。
神を恐れ、神を待ち望みましょう。神の国の到来を宣言なさったキリストの言葉を、謙って受け入れましょう。「完全なもの」であるキリストの御支配が必ず来る。キリストをお迎えするために、今日の一日を謙って歩んでいきましょう。

2025年8月18日月曜日

2025年8月18日の聖句

もろもろの民にその業を知らせ、その名が崇められていることを告げよ。(イザヤ12:4)
あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。(マタイ28:19~20)

洗礼を授けられた者にとって、洗礼を授けられた日は決して忘れることのできない意義深い日です。私は30年くらい前に、石塚惠司牧師に洗礼を授けて頂きました。洗礼は、私たちが神のものとされたというしるしです。この「しるし」ということが大事なのだと思います。洗礼を授けられた日に初めて神のものとなったのではない。私たちはそもそも神のものです。キリストのものです。目に見えないその確かな事実の目に見える「しるし」が刻まれた。それが洗礼という出来事です。
すべての民のところへ行って、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けるように、と主イエスさまがお命じになりました。すべての民を、キリストはご自分のものとなさったのです。すべての民のために、キリストは十字架にかけられたのです。キリストの命の恵みはすべての民に向かっている。そうであるからこそ、そのしるしである洗礼をすべての民に授けるように、とキリストは私たちをお遣わしになったのです。
あなたもキリストのものです。どんなに違うと思ったとしても、その事実はキリストがお決めになった確かな事実ですから、私たちには否定しようがありません。私たちをご自分の祝福の中に包み込み、私たちを神のものとして生かしてくださるキリストを崇め、私たちの今日一日の歩みがおりなされていきます。

2025年8月17日日曜日

2025年8月17日の聖句

今週の聖句:
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。(ルカ12:48b)

今日の聖句:
私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。(詩編90:10)
私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。(フィリピ3:10)

私たちの生涯は70年、健康な人であっても80年。それは私たちの時の長さから考えれば長い時間ですが、神さまの御目からご覧になればほんの一瞬のことに過ぎません。神のもとでは1000年も一日のようなものです。私たちの短い人生の時間の中で一体何を誇ることができるでしょうか。誇れるものなど労苦と災いだけに過ぎない。この詩編作者はそのように言います。私たちは弱く儚い存在に過ぎません。私たちの命はほんの一瞬のものであり、やがては滅びゆく小さなものに過ぎない。
そんな弱くて脆く、消えゆくものを救ってくださるのは、キリストとその復活の力です。それ以外にはない。私たちの小さく、やがて消えゆく命を御心に留め、永遠の神の祝福の手の中におさめてくださるキリストの復活の力。私たちはキリストを仰ぎ、キリストのものとして新しい一週間を歩んでいくのです。

2025年8月16日土曜日

2025年8月16日の聖句

もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求める。(創世記4:7)
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。(マタイ27:3~4)

罪は、その行いが生み出す結果を抱え込んでいます。弟アベルを殺したカインは、その後の彼自身の人生を更なる苦しみに追い込んでしまいました。カインは神様の御前に顔を上げることができなくなっていまいました。カインは自分が犯した罪に支配されてしまった。もはや、自由ではありません。
それはイスカリオテのユダも同じです。ユダは銀貨30枚の値で主イエスを売り渡しました。しかし主イエスに死刑判決が下ったことを知って後悔しました。ところが、どんなに後悔してももうやり直すことができません。結局ユダは後悔の中で自ら命を絶ってしまったのです。
私たちが犯した罪が私たちを支配しようとしています。私たちはそこから自由になることができるのでしょうか。私たち自身にはそれは非常に難しいと言わねばならないと思います。カインもユダも、特に意志が弱いとか、忍耐が欠如しているとか、そういうことではないと思います。私たちは自分の罪に対して不自由です。ただ、主イエス・キリストの十字架と復活だけが私たちを自由にすることがおできになる。それ以外には私たちに望みはない。しかし、キリストは必ず私たちを救ってくださいます。そのことを信じ、キリストによりすがって歩んでいきましょう。

2025年8月15日金曜日

2025年8月15日の聖句

命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。(詩編63:5)
民衆は皆、彼(癒やされた人)が歩き回り、神を賛美しているのを見た。(使徒3:9)

生まれつき足の不自由な人がペトロとヨハネに出会い、主イエス・キリストの御名によって歩けるようにされました。この人は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がってたち、歩き出した。その様子を、周囲にいた民衆が見ていた、と聖書は伝えています。「民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。」キリストとの出会いが私たちに起こす素晴らしい出来事は、私たち自身に留まらず、周囲にいる人々の見るところとなり、それは証しの力をもって広まっていきます。
神さまを賛美しましょう。私たちに出会ってくださった神さまのすばらしさを、主イエス・キリストの愛の深さをほめ歌いましょう。「命のあるかぎり、あなたをたたえ、その名によって、手を高く上げよう。」キリストを賛美する私たちの姿を、神さまが用いてくださって、福音の証人にしてくださいます。
私たち自身も、そうやってキリストとの出会いのすばらしさを証言してくれたたくさんの人たちの言葉や姿を通してキリストを知ったのではないでしょうか。私たちも、キリストを愛する人たちの賛美の歌によってキリストを知らされたのではないでしょうか。私たちも同じ声になることができる。私たちも同じように、キリストの証人にされる。今日、御言葉はそのように語りかけています。

2025年8月14日木曜日

2025年8月14日の聖句

主は言われた。「あなたの言葉の通り、私は赦そう。」(民数記14:20)
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。(マルコ11:25)

主イエス・キリストは、私たちが誰かを恨んでいるとき、その人を赦すことを求めておられます。主の祈りでも、「私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈るように、とおっしゃいました。
主イエスは、私たちが当然のように自分が赦されることだけを求めるのではなく、「誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい」とお命じになります。私たちにとってはたいへんチャレンジングなご命令です。
ところで、日本のキリスト教界では、多くの場合、罪のゆるしという意味での「ゆるす」を「許す」ではなく「赦す」という字で表記しています。「許す」が「許可」の字であることから避けたのだろう、と思います。神さまが私たちの罪を赦してくださったというのは、私たちが罪を犯すことを許可したり、罪をしてもいいことにする、という意味ではありません。罪の結果を神ご自身が引き受け、御子イエスに負わせた上で私たちを受け入れてくださった、という意味です。
神のしてくださった罪の赦しの有り難さ(文字通り、「有り難い」ことです。)を、骨身にしみて味わいましょう。「あなたの言葉の通り、私は赦そう」と神は言ってくださいます。この果てしない赦しの恵みに打ちのめされたとき、私たちも自分の赦せないという思いに固執するのではなく、神が負ってくださった罪の痛みを僅かでも負う者にして頂けるのではないでしょうか。

2025年8月13日水曜日

2025年8月13日の聖句

主はまことの大盾、小盾。(詩編91:4)
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。(ヨハネ3:21)

今日の御言葉を読んで、キング牧師の祈りの言葉を思い出しました。このような祈りです。

主よ、私はここで正しいことをしようとしています。
わたしはここで正しいと信じることのために立ち上がっているのです。
しかし主よ、私は告白しなければなりません。
私は弱いのです。私は倒れそうです。勇気を失いそうです。そして恐れています。
だが私は人々にこんな私を見せたくありません。
なぜならもし彼らが私の弱い、勇気を失っている姿を見るなら、
彼らも弱くなってしまいます。
人々は私に指導力を期待しています。
だからもし私が力と勇気を失ったままで彼らの前に立つなら、
彼らも倒れてしまいます。
私はもう力の限界に来ています。もう何も残っていません。
もう一人で立ち向かうことはできません。(梶原寿訳)

キング牧師の非暴力の戦いの中、どれほどの苦悩と恐怖を覚えての祈りだったのでしょう。伝えられるところによると、この祈りを捧げた三日後に自宅に爆弾が投げ込まれたそうです。しかし、もはや彼は恐れなかった。真理そのものであるキリストが盾となって守ってくださることを信じたのではないでしょうか。
今、恐れてはいないでしょうか。勇気を失ってはいないでしょうか。主を信じましょう。そして、大胆に生きましょう。キリストがあなたと共にいてくださいます。

2025年8月12日火曜日

2025年8月12日の聖句

主は生きておられる。
わが岩をたたえよ。(詩編18:47)
イエスは言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」。(ルカ24:46)

「主は生きておられる」は、使徒たちが宣べ伝えた最初の福音の言葉でした。「主は生きておられる!」十字架に掛けられて死に、葬られた主イエス。この方を神は死者の中から甦らせられた。主は生きておられる。イエス・キリストは生きておられる。この事実を神のくださった良き知らせとして口から口へと伝えられ、福音が広まっていったのです。
それは、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する」という聖書の御言葉の成就であり、キリストご自身のおっしゃっていた御言葉の成就でした。聖書が伝えてきたとおり、神が私たちのもとに遣わしてくださったメシア、まことの王である方は苦しみを受け、死者の中から復活した。神の国がここに始まっている。神の国を私たちにもたらしてくださったまことの王は、イエスをおいて他にはいない。主イエスの十字架と復活の出来事は、その事実のしるしなのです。
主イエスさまの十字架と復活。これこそ私たちを救う神の力です。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、使者の中から引き上げられた平和の神が、御旨に適うことをイエス・キリストによって私たちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が代々限りなくキリストにありますように、アーメン。」今日も、キリストの恵みと平和はあなたにあります。そのことを信じて、新しい一日の歩みに出て行きましょう。

2025年8月11日月曜日

2025年8月11日の聖句

主の名を呼び求める者は皆、救われる。(ヨエル3:5)
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、付いて行ってはならない。」(ルカ21:8)

主イエスさまのお名前を語る者たち、偽教師とか偽預言者ともいうべき者が必ず現れることになる、と主イエスさま御自身が指摘しておられます。神の名を自分勝手に騙る者、救い主を自称する者。いつの時代にも、そういう人は大勢出てきます。私たちの時代にも、いろいろな「異端」と呼ばれるような教えはたくさんあります。どうしてそういうまがい物が後から後から湧いて出てくるのかと考えれば、それはやはり、人々が不安だからだと思います。人々の不安につけ込んで、偽物が幅をきかせている。それは本当に罪深いことだと思います。
「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と聖書は言います。主なる神さまは、私たちを愛し、救ってくださるお方です。私たちをご自分の民とするために、私たちにご自分の御名を知らせてくださいました。私たちがこのお方を「主イエス・キリストの父なる神様」とお呼びするのは、神さまがまず私たちをご自分の子としてくださり、愛してくださったからです。
まことの神さまは、私たちには計り知れないほどの愛に満ちたお方です。人々の不安をあおり、私たちを脅すようなお方ではありません。私たちはキリストのお名前を呼び求めます。私たちは慈しみに満ちた神さまの御名を賛美します。ここに救いがある。私たちが考えるよりも遙かに深い恵みに満ちた御心で私たちを包み込んでくださる。このお方の御名を呼び求めましょう。キリストの愛の中で今日も歩んでいきましょう。

2025年8月10日日曜日

2025年8月10日の聖句

今週の聖句:
光の子として歩みなさい。光の結ぶ実は、あらゆる善と義と真理との内にあるからです。(エフェソ5:8b,9)

今日の聖句:
主があなたを祝福し、あなたを守られるように。(民数記6:24)
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)

学生の時に初めて一人で海外旅行をしました。アメリカに行きました。テネシー州にあるカンバーランドの信徒の方のお宅にホームステイし、いくつかの姉妹教会に伺いました。何人もの牧師と会いましたが、別れ際に皆さん、力強く握手をして"God bless you!"と言ってくださいました。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。」
主なる神さまの祝福を願い、そのことを神に祈り、神の守りを求める言葉です。日本語でそのままこれを挨拶にすると少し気取ったような感じになってしまうかもしれませんが、私たちも心は同じです。お互いのための神の祝福を祈り合います。
主イエスさまは私たちを祝福し、私たちに御顔を向けてくださっています。そして、どのようなときにも、必ず、私たちと共にいてくださいます。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この大いなる祝福の手の中で、私たちは今日も生きていきます。キリストが共にいてくださいます。主がいつもあなたを祝福してくださっています。
今日もキリストの平和のうちに歩みましょう。主イエス・キリストの恵みと祝福が今日もあなたにありますように。

2025年8月9日土曜日

2025年8月9日の聖句

あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、あなた方の心を主に向けなさい。(ヨシュア24:23)
あなたがたの役に立つことは一つ残らず、伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。(使徒20:20,21)

「あなたがたの中にある異国の神々」と言われています。異国の神々が「あなたがたの中」にある。それだけ深く私たちの生活習慣や因習の中に根を下ろしている、ということではないでしょうか。考えてみると、日本語でも「これは宗教ではなく習慣だ」という言い方があります。私たちの生活に深く関わる因習のようなものが、実は「異国の神々」の現れであるということもあるのではないでしょうか。
同じことを、少し視点を変えて考えてみます。「異国の神々」が生活習慣に深く根を下ろしているということは、逆に言えば、主なる神さまの方はよそ者だ、と考えられているということだと思います。私たちもよく耳にします、「キリスト教は西洋の宗教だ」「日本人の宗教ではない」、と。それではヨーロッパに行けばキリスト教という土着の宗教があるということなのでしょうか。確かにヨーロッパ世界には2000年近くの伝統があります。しかし、もとはイスラエル(つまり西アジア)の人々の信仰です。ところがもっと遡って考えれば、何も「イスラエル人が発明した宗教」ではない。神は遠くから来られて、アブラハムと出会い、その子どもたちと出会い、彼らの神になってくださった。そのお方が独り子イエスを与えてくださった。つまり、「キリスト教」という誰かにとっての所与の宗教があって、それが伝来して私たちが帰依している、ということではないのです。私たちの誰にとっても他者であるお方、このお方の前では誰もがよそ者であるお方。この神が私たちを訪れ、出会い、私たちをご自分の民としてくださったのです。
キリストとの出会いは私たちを新しくします。私たちの主人は、私たちの間にある「まことの神ならぬもの」からイエス・キリストに替わります。私たちと出会ってくださった主なる神に、私たちの主人が替わるのです。私たちの主イエスに対する信仰。それは神が私たちに与えてくださるものです。

2025年8月8日金曜日

2025年8月8日の聖句

私は言った。
「舌で罪を犯さないように、私の道を守ろう」。(詩編39:2)
同じ口から、賛美と呪いが出て来るのです。私のきょうだいたち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)

なんと痛い言葉なのでしょうか。舌の犯す罪。同じ口から、賛美と呪いが出て来る。何度この罪を犯してきたことか。目を上げることのできない現実に取り囲まれています。まさに、舌は疲れを知らない悪です。
今日の詩編は、舌で罪を犯さぬために「私の道を守ろう」と言っています。どうやって自分の道を守るのか。さらに続けて読むと、「悪しき者が私の前にいるうちは、口にくつわをはめておこう」と言います。目の前にいる悪しき者についカッとして、あるいはつられて、口から罪深い言葉が出て来る。しかしそれは悪しき者の責任ではない。自分の心の中にもともとあったものです。自分の中にあるから、何かのきっかけで飛び出してくるのです。この罪から逃れるための道は、自分の口にくつわをはめてしゃべらないこと。黙り込み、口を閉ざすしかない。そのように言います。
ところがこの詩編が本当に人の心をよく知っていると思うのは、さらにその続きがあるところです。そうやって口を閉ざして、良いことも悪いことも何も話さないようにしたら、それは自分にとって苦痛であった、と言うのです。「私のうちで心が熱くたぎった。私の呻きで火は燃え上がり、私の舌で私は語った。」もう何も口にするまい、舌の罪を遠ざけようと思って口を閉ざしても、それには限界があった。不可能だった。そう言います。
そうなのです。私たちにはどうすることもできない、疲れを知らない悪。私たちの存在の根源に根ざしている罪です。だからこそ、私たちにはキリストに助けを求めるより他ないのです。
私たちの思いと言葉、行いと怠惰による罪を赦し、私たちを解放することがおできになる方に、憐れみを求めます。

2025年8月7日木曜日

2025年8月7日の聖句

あなたがたは多くの収穫を期待したが
それは僅かであった。
あなたがた家へ持ち帰ると
私はそれを吹き飛ばした。
それはなぜなのかーー主の仰せ。
それは、私の神殿が廃墟のままであるのに
あなたがたが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。(ハガイ書1:9)
あなたがたファリサイ派の人々に災いあれ。あなたがたは、ミント、コヘンルーダ、あらゆる野菜の十分の一は献げるが、公正と神への愛をおろそかにしている。これこそ行うべきことである。もっとも、十分の一の献げ物のもなおざりにはできないが。(ルカ11:42)

ハガイ書はバビロン捕囚から解放された後の時代の預言書です。エルサレムは70年ほど前の戦争で破壊され、信仰の中心である神殿も破壊されたままになっていました。捕囚から解放された帰還民が取り組んだ仕事がエルサレムの外壁の再建、そして神殿の再建でした。預言者ハガイが活動した時代はまだその最初期で、神殿再建もままならなかったようです。遠い捕囚地から帰還した人々はまだ自分たちの住まいや生活に精一杯で、神殿をどうすることもできないままでいた。そのようなときに「私の神殿が廃墟のままであるのに、あなたがたが、それぞれ自分の家のために走り回っている」と指摘された、ということになります。
これを読んで、考えさせられます。自分がどんなに言い訳の名人であるかを。まだ自分の生活もままならないから。まだ状況が好転していないから。まだ○○だから・・・と、永遠にできない理由を並べることができます。しかしそれは違うのではないか、と主は問いかけておられます。
今日の新約は、私たちのささげ物が形ばかりを整えるものに過ぎず、生き方が自分勝手なものであることに目を向けようともしない、と主イエスが指摘しておられます。公正と神への愛をおろそかにしておいて、神に心からのささげ物をすることなどできないはずだ、と言われるのです。ここでもやはり、言い訳の問題なのだと思います。献金しているから、ということを言い訳にして、自分の生き方が変えられることを拒んでしまう。とても偽善的ですが、それを許容できてしまう私たちのあり方を主は問うておられます。
私たちはどのように主に従い、主を信じて生きていくのでしょうか。真実な信仰に生きるために、聖霊の助けを真心から求めたい、と願います。

2025年8月6日水曜日

2025年8月6日の聖句

主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。(出15:1)
私は霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊でほめ歌を歌い、理性でもほめ歌を歌いましょう。(1コリント14:15)

神さまは憐れみ深いお方です。私たちの憐れみに満ちた父でいてくださいます。このお方は、私たちが献げるほめ歌、賛美の歌を喜んで聞いてくださいます。主が私たちに傾けてくださる耳の恵みのなんと深いことでしょう。私たちのほめ歌に耳を傾けてくださるのですから。
「主に向かって私は歌おう。なんと偉大で、高くあられる方。」賛美の心は、驚きの心です。「なんと偉大で、高くあられる方。」私たちを見いだし、思いを寄せてくださり、愛し、救ってくださる神さまの偉大さ。このお方はただ高いところにおられるだけではなく、低きに下って私たちと共に歩んでくださり、私たちを救ってくださるお方です。この神の偉大な御業のために、私は今日も生かされている。
今日の新約では、霊と理性という言葉が出てきます。理性の方がすぐに意味が分かります。霊というのはどういうことでしょうか。コリントの信徒への手紙の前後を読んでみると、ここでは「異言」の話をしています。異言というのは、理性によっては理解することのできない特別な祈りの言葉です。誰にでも口にすることができるわけではない、また、誰にでも解釈することができるわけではない。パウロは、この手紙で、「異言はその言葉の特性のゆえに他人を造り上げるわけではない。自分を造り上げる言葉だ」、という趣旨のことを言います。だから、他人にも分かる「預言」の言葉を語る方が良い、と言っています。今日の箇所の「霊で祈る」というのは異言の祈りのことであろうと思います。それに対して、「理性で祈る」というのは、誰が聞いても意味の分かる、他人を立て上げるような祈りの言葉、ということであると思います。
つまり、霊で祈り理性で祈るというのは、人間の心のありとあらゆる次元で祈る、ということであろうと思います。感情の発露や理性の深まり、霊の衝動や情動の動き。そういったすべてをもって神を賛美する。私のすべてをもって賛美するべき、偉大な神。私のすべてを献げる高きにいます神。このお方をほめたたえる。ここに私たちの賛美があるのです。

2025年8月5日の聖句

主はモーセに言われた。「私が命じるすべてのことをあなたが告げなさい。」(出7:1,2)
御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。(2テモテ4:2)

福音は、私たちが宣べ伝えることによってこの世界に伝えられます。主は私たちキリスト者の口に福音の言葉を預けてくださいました。神さまの御言葉を私たちがこの口に上らせて、今ここでキリストの福音の使者になることを主なる神さまは望んでおられます。
「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。」
時が良くても悪くても、と書いてあります。今は良い時なのでしょうか、それとも悪い時なのでしょうか。福音伝道に日本中の教会が苦慮しています。そういうことを考えると、あまり良い時とは言えないのかもしれません。神を求め、永遠にあこがれるよりも、刹那的な欲求の充足や気分をすっきりさせる怪しげな言説の方がよほど力を持っているように思えます。しかし私たちは、神に命じられて、時が良くても悪くても、御言葉を宣べ伝えます。誰もが、どんなときにも、キリストの福音を必要としていると信じているからです。
そのためには忍耐が必要です。諦めずに語り続け、成果が見えなくても福音を宣言し続ける。それは忍耐深いあり方です。キリストがこの道に私たちキリスト教会を招いておられると信じ、私たちは福音の証し人として、歩んでいきます。

2025年8月3日日曜日

2025年8月3日の聖句

今週の聖句:
あなたがたはもはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する神の家族です。(エフェソ2:19)

今日の聖句:
(主の言葉)私はあなたに悟りを与え、歩むべき道を示そう。(詩編32:8)
(イエスの言葉)私に従いなさい。(ヨハネ21:22)

主イエスは「私に従いなさい」と、私たちにお命じになります。この「従う」というのは、文字通りには「後について行く」という意味です。主イエスが歩んで行かれるところに、主の足跡に自分の足を重ねるようにしてついていく。それが、主イエスの弟子として主に従うということの原型であるのだと思います。
主イエスは今日、どこに進んでおられ、何をなさっているのでしょうか。主は誰と出会い、誰の傍らにおられ、どのような愛の業を進めておられるのでしょうか。私たちは主イエスの言葉に導かれ、主に促されて、主イエス・キリストの後についていきます。主が進んで行かれるところへと共に行き、主がしておられることのために共に仕えます。
今日の詩編に「私はあなたに悟りを与え、歩むべき道を示そう」と書いてあります。主なる神さまが私たちに悟りを与えてくださる。主に従い、主の道を行くために必要な悟りです。主を愛し、主のものとして生きるために必要な知恵です。この知恵は「主を畏れることは知恵の始め」という意味での知恵です。主を畏れ、主に従い、主イエス・キリストの愛に従って生き、私たちは神を礼拝するのです。
今日も主イエス・キリストの恵みと祝福がありますように。

2025年8月2日土曜日

2025年8月2日の聖句

兄弟に対して、心の中に悪意を抱いてはならない。(ゼカリヤ7:10)
皆思いを一つにし、同情し合い、きょうだいを愛し、憐れみ深く、謙虚でありなさい。(1ペトロ3:8)

「兄弟・きょうだい」というのは、共に神を信じる仲間たちのことです。ですから今日の聖書の御言葉は、教会の人間関係の話をしていることになります。
まず、「皆思いを一つに」するように、と言っています。スポーツのチームであれば、大会での優勝とか技術力の向上とか、何らかの共通の目標や思いがあるでしょう。チーム一丸になって同じ目標を共有していると、個々人でいるときにはないチームならではの力を発揮することができるようになります。私たちキリスト教会の場合は、どういう思いを共有するのでしょうか。それは言うまでもなく、主イエス・キリストの示してくださった神の愛であり、このお方を信じる信仰、そしてキリストが与えてくださった希望であるのではないでしょうか。キリストにあって、私たちは思いをひとつにする。
同情、兄弟愛、憐れみという言葉もあります。どれも、悲しんでいたり痛んでいたりする隣人への想像力に満ちた愛の心です。人が痛んでいるのを自分の痛みとして痛み、悲しみに思いをいたす。主イエス・キリストは私たちと同じ一人の人間としてお生まれになりました。このお方こそ、究極の憐れみのお方です。
そして、聖書は私たちに「謙虚」を求めています。私たちが神の前に、そして兄弟姉妹の前に謙ること。神の前に一体自分は何者なのか?隣人に対してどれほどの者なのか?何も誇ることのできない自分であることを認め、謙る。
このように見ていきますと、教会は、キリスト抜きの人間関係はあり得ないのだということに改めて気付きます。主イエスさまが私たちの間にいてくださり、共にキリストを仰ぎ、福音の言葉に聞き、このお方を賛美し礼拝する。聖霊なる神様が私たちの間を満たしてくださって、私たちを神のものとしてくださいます。

2025年8月1日金曜日

2025年8月1日の聖句

8月の聖句:
私は今日まで神の助けをいただいて、しっかりと立ち、神を証ししました。(使徒26:22)

今日の聖句:
主である私たちの神よ、私たちが希望を抱くのはあなたではありませんか。(エレミヤ14:22)
神は私たちに永遠の命を与えてくださり、その命を私たちは御子を通して得ます。(1ヨハネ5:11)

私たちが希望を抱いて待ち望むのは、主なる神さまです。このお方こそが世界を造り、雨を降らせるお方です。私たちは晴れの日も雨の日も備えてくださる神の慈しみによって生かされています。
しかし、雨と言っても最近はゲリラ豪雨のようなすさまじい雨もありますし、最近は晴れと言ってもあまりにも灼熱の毎日で、あまりありがたく感じないのが正直なところです。現代を生きる私たちには、あまり天気によって神さまの恵みを感じにくくなっているところがあるのかもしれません。
現代の天候の厳しさは、やはり私たち人間の様々な活動によって損なわれた結果と言わなければならないでしょう。人間の罪の結果であることは、紛れもない事実です。
そういう中でも私たちが神の慈しみを信じるのはなぜでしょうか。その答は今日の新約の御言葉にあります。「神は私たちに永遠の命を与えてくださり、その命を私たちは御子を通して得ます。」神の御子イエス・キリスト。このお方こそ、私たちが神の慈しみを信じることのできる根拠です。私たちはキリストを通して神と出会います。キリストを通してこの世界を見つめます。そこに神の慈しみがあることを、キリストによって示された神の愛のゆえに信じることができるのです。
そうであるからこそ、私たちはすべての命が共に生きる場所、皆が共に生きる家であるこの世界を守るための責任を果たさなければならないのではないでしょうか。神の御前に、共に歩んでいきましょう。

2025年9月16日の聖句

天は神の栄光を語る。(詩編19:2) あなたがたは自分の体で神の栄光を現しなさい。(1コリント6:20) 今日の旧約の御子と鳥羽は「天は神の栄光を語る」と言っています。この詩編の祈りの言葉を最初に口にした人物は、今から恐らく3000年近く昔の人物です。天を仰いで何を見たのでしょう...