2026年1月31日土曜日

2026年1月31日の聖句

主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。
私はあなたの手の業を喜び歌おう。(詩編92:5)
(足が不自由であった男は)躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神を賛美し、(ペトロとヨハネ)二人と一緒に境内に入って行った。(使徒3:8)

使徒ペトロとヨハネとに足を癒やしてもらったこの男は、金や銀をもらうよりももっと大きな喜びをもらいました。生まれつき不自由だった足がしっかりして、立ち上がることができた!そしてその歩けるようになった足で、この人はペトロとヨハネと共に歩き出し、一緒に神殿の境内に入っていったのです。歩き回り、踊り、神を賛美しながら。
この人に起こったのは、私たちにも起こる主イエスさまとの出会いの出来事です。ペトロやヨハネ、そしてこの2000年間の無数の証人たちの言葉や業といった証しによって、キリストとの出会いの出来事が起こってきました。このお方との出会いが私たちの人生を変えます。金や銀を手にするよりももっと決定的に、根本的に、私たちはキリストによって新しくなる。
「主よ、あなたの働きは私を喜ばせる。私はあなたの手の業を喜び歌おう。」私たちの今日の営みや言葉が、主を賛美するものでありますように。主の御前にあって、主に心を向けて、私たちの存在そのものが神を賛美するものとなりますように。主ご自身が働いてくださって、私をも、そのようなものにならせてくださいますように。

2026年1月30日金曜日

2026年1月30日の聖句

主は民に答えられた。
「私は穀物と新しいぶどう酒
また新しいオリーブ油を送り
あなたがたを満ち足らせる。」(ヨエル書2:19)
イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、感謝し、パンを裂き、それを弟子たちに分配するようにと渡され、二匹の魚も皆にお分けになった。人々は皆、食べて満腹した。(マルコ6:41~42)

穀物も新しいぶどう酒も、新しいオリーブ油も、すべてを生み出し、私たちを養ってくださるのは主なる神さまです。この世界を造り、命を生み出し、私たちをも造ってくださった方は私たちを今も養い、生かしてくださっています。神さまのご慈愛と深い愛の中で、今日の私たちが保たれていることを信頼し、主なる神さまを賛美しましょう。
主は5000人の大群衆にも、僅か五つのパンと二匹の魚を取り、これを祝福し、分け与えてくださいました。五つのパンと二匹の魚。小さなものです。僅かな食べ物です。私たちの小さな両手でも持てるほどのものです。大群衆という「現実」を前にしたら、それはあまりに非力だし、自分には何もできないし、私たちは途方に暮れてしまいます。厳しい現実は私たちの力の外にあって、手出しすることができない。
しかし、主はその僅かなものを用いて人々を養ってくださいます。この世界を造り、保ち、私たちをも愛してくださっている主は必ず私たちのことも養ってくださるし、私たちの目の前にいる人々のことをも愛し、養ってくださいます。主の力を信じ、主の御業を信頼しましょう。私たちはただ主を待ち望む主の民です。

2026年1月29日木曜日

2026年1月29日の聖句

わが神、主よ、あなたが私たちにお示しくださった
驚くようなみわざと
その思い計らいは偉大です。
あなたに並ぶ者はありません。(詩編40:6)
すると、その(癒やされた)人は起きて、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚嘆し、「このようなことは、今まで見たことない」と言って、神を崇めた。(マルコ2:12)

今日の新約聖書の御言葉は、体の麻痺した人を癒やしてくださった主イエスの御業を伝えています。この人は自分では動けませんでしたが、四人の仲間たちが彼を主のもとへ連れて来てくれました。この人が来たとき、最初に主イエスは「あなたの罪は赦された」とおっしゃいます。ところが人々は心の中でつぶやきました。「この人は、なぜあんなことを言うのか。神を冒瀆している。罪を赦すことができるのは、神おひとりだ。」主はそのつぶやきを見抜き、ご自分が罪を赦す権威をお持ちでいらっしゃることを示そうとおっしゃって、宣言なさいました。「起きて、床を担いで歩け」と。
つまり今日の御言葉の癒やしは、主イエスの罪の赦しの権威の徴です。主イエスはただ単に人を癒やす奇跡の力を持ちだ、ということではない。それ以上のお方です。神にしかおできにならないこと、つまり罪を赦すことがおできになる方です。神の子として私たちの罪を赦すことができる方です。
キリストが私たちのところへ来られたからには、そこに罪の赦しの出来事が起こります。その事実を私たちは畏れをもって受け止めたいのです。主に並ぶ者は他にはいない。主がおられるところに神の国が始まっている。罪の赦しを宣言する救いの出来事が始まっているのです。
中風の人に罪の赦しを宣言したとき、その場にいた律法学者はつぶやきました。新しい神の御業を受け入れることができなかったからです。へりくだってキリストの言葉に耳を傾けましょう。ここにこそ救いがあることを謙遜に信じたいのです。

2026年1月28日水曜日

2026年1月28日の聖句

主よ、私を見捨てないでください。
わが神よ、私から遠ざからないでください。(詩編38:22)
(ヤイロは)しきりに願った。「私の幼い娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(マルコ5:23)

ゲルトルート・ヒンネマンという人がこのような祈りの言葉を残しています。
「神さま、私を助けてください。もし私が逃れることができないのなら、この苦しみと痛みを受け入れられるように。
経験させてください。私の生涯のこの時に、あなたが共にいてくださることを。
経験させてください。私が愛する人々とも、あなたが共にいてくださることを。
助けてください。私が今いるこの状況で私を支えてくれるすべての人たちを。
お支えください。私自身ではもう耐えることができないところで。」
私たちもこのヒンネマンさんのように、あるいは詩編第38編の言葉を祈ってきた代々の信仰者のように、そしてヤイロのように、主に祈って良いのです。「主よ、助けてください」と。主よ、私から遠ざからないでください。見捨てないでください。大胆にそう祈り、主の助けを求めましょう。
主に助けを求めるときには誰もが切実ですが、中でもヤイロの切実さは他を寄せ付けないところがあります。大切な人、愛する人のための執り成しの祈りです。主は、私たちがかけがえのない人のために祈り、主の助けを求めて祈ることを待っておられるのです。

2026年1月27日火曜日

2026年1月27日の聖句

私の思いは、あなた方の思いとは異なり
私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ。(イザヤ55:8)
さて、「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」と言う人たち、むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。(ヤコブ4:13,15)

私たちには私たちなりの計画があります。「今日か明日、これこれの町へ行って一年滞在し、商売をして一儲けしよう」。どう生きるのか、何をするのか、どんな仕事をしてどこで過ごすのか。そういうことに思いを巡らすのは自然なことですし、それ自体は責められるべき事ではないと思います。むしろ、自分の人生に責任をもって生きるためには、これからへの見通しを持つことはとても大切だと思います。
しかし、主は言われます。そのように言って計画を立てるよりも、むしろ私たちが言うべき言葉がある。「主の御心であれば、生きて、あのことやこのことをしよう」。私たちにいちばん大切なのは主が何をしておられるのか、ということです。主はどこに進んでおられ、今何をしておられるのか。私たちは自分の計画ではなく、主の計画の中で生きる者です。
時に、主は私たちの計画やしようとしていたこと、進もうとしていた道を閉ざしてしまわれます。私たちが自分の進もうとしているところに行くことをお許しにならないことがある。自分の道が閉ざされるのはとても辛いことです。しかし、それは同時に尊い瞬間です。自分の描いた道が閉ざされたときは、神の御心が進もうとしているときだからです。「私の思いは、あなた方の思いとは異なり、私の道は、あなたがたの道とは異なるーー主の仰せ」。私の思いや願いとは異なる主の思い、主の御心が成ることこそ、私たちの真の幸せへの道でもあるのです。

2026年1月25日日曜日

2026年1月25日の聖句

今週の聖句:
人々は、東から西から、また北から南から来て、神の国で宴会の席に着く。(ルカ13:29)

今日の聖句:
私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。(エレミヤ27:5)
神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されて以来、その筋をきちんと追ってさえすれば、その御業の内に見て取ることができます。(ローマ1:20)

自然は私たちの力の外にあります。現代を生きる私たちはそのことで勘違いをしがちです。人工的な降雨技術を開発したり、生命のかたちを変えたりする研究もありますが、私たちは勘違いして高慢にならないように気をつけねばならないと思います。いい気になってはならない。私たちにできることは小さな事でしかない。日本海側で今降りしきる大雪を止めることも、干ばつを解決することもできない。私たちは造られたものです。人間の分際です。その点でのへりくだりは、とても大切ではないでしょうか。
しかし、神はそうではない。神はすべてのものの造り主です。「私は、大いなる力を振るい、腕を伸ばして、地と、地の面にいる人と動物を造った。そして、私の目に適う正しい者にそれを与える。」造ったお方の前での謙遜、造られたものとしてのわきまえを失うと、人間は簡単に怪物になってしまいます。
今日の新約の御言葉はこのように言います。「神の見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されて以来、その筋をきちんと追ってさえすれば、その御業の内に見て取ることができます。」そのような神の御業を仰ぐまなざしを持つならば、私たちは、神の御業を畏れ、自分の小ささをわきまえ、造り主を礼拝し、崇める以外にはないのではないでしょうか。キリスト教会はそのようにして神を崇める者たちの群れです。

2026年1月24日土曜日

2026年1月24日の聖句

その集いは私の前に揺るぎなく立てられる。(エレミヤ30:20)
あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。(エフェソ2:20)

今日の旧約聖書には「その集いは」と書かれています。どの集いのことか。聖書を開いて確かめてみると、この文章の一行前に「ヤコブの子らは昔のように栄え」と書かれている。今日の御言葉はその続きです。ここに「ヤコブ」とある。ここでの「ヤコブ」というのは「イスラエル」と言い換えることができます。つまり、北王国イスラエルを指している。そして、預言者エレミヤが活動していた時代、既に北王国イスラエルは滅びていました。ですから「ヤコブの子らは昔のように栄え」と、ここでは「昔のように」と言っている、ということになります。
少し細かい話になってしまいました。改めて今朝の旧約には「その集いは私の前に揺るぎなく立てられる」と書いてあります。「その集い」すなわちヤコブを神は再び立たせてくださる。既に滅び、散り散りになってしまったかつての神の民イスラエルを神が再び立たせてくださる、と主は言われます。
私たちが神の民として立ちうるのは、神が私たちを立たせてくださるからです。神が立たせてくださるのであれば、例え滅びたヤコブでも再び立つことができる。神には私たちを神の民にすることがおできになる。どのようにして私たちを一つの民にするのか?その秘密が今日の新約です。「あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。」私たちは使徒や預言者から成る土台、つまり福音の言葉という土台によって立てられている。聖書の証しする福音の言葉が私たちを神の民、教会として建てる。そのように言っているのです。
私たちを一つの教会、一つの民としてくださる神の言葉に耳を傾けましょう。そして、この言葉に力を頂いて、一つになりましょう。私たちの人間的なつながりではなく、神の言葉が私たちを一つにするのです。

2026年1月23日金曜日

2026年1月23日の聖句

主は代々とこしえに治められる。(出エジプト記15:18)
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:33)

主イエスこそ真の王であって、その支配は終わることがない。聖書はそう証言します。そもそも「キリスト」という言葉の基本的な意味は「王」です。イエスを「キリスト」とお呼びするとき、その最も土台にある意味は「王であるイエス」です。真の王、真の支配者としてのイエスを私たちは崇め、礼拝しているのです。
主イエスがエルサレムに入城する場面が聖書に描かれています。主は子ろばに乗ってエルサレムに入城なさいました。それを見た群衆は自分の上着を道に敷き、木の枝を振って「ダビデの子にホサナ」と叫びました。一つひとつが王をお迎えするための仕草です。群衆も主イエスを王として崇め、お迎えしたのです。
しかし、この時の群衆は、そして私たちも同じですが、イエスが王でいらっしゃるということの意味を誤解していたと思います。私たち人間はいつでも「真の王」の意味をはき違えます。ユダヤ人たちはローマに打ち勝つ王国を打ち立てる王を望んでいたのでしょう。私たちも、私たちの思い描く「成功」や「繁栄」、あるいは「自己実現」に仕えてくれて、それを達成させてくれる王を求めます。王を迎えているようでありながら、自分の僕になって仕えてくれて、自分の願いを果たしてくれる「王様っぽい存在」を求めてしまうのが私たち人間の現実ではないでしょうか。
しかし、主イエスは真の王として私たちのところへ来ました。このお方の玉座は十字架であり、このお方の栄光は死者の中からの復活です。私たちの願いや期待の外にこの方はおられる。私たちの願いを超えて、本当に私たちに必要な救いをくださるのはこのお方です。真の王でいらっしゃるこのお方が永遠に私たちを治め、その支配には終わりがありません。私たちはこのお方の民として王イエスを崇め、礼拝します。

2026年1月22日木曜日

2026年1月22日の聖句

主は、彼らを苦しめる者の手から贖い
国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。
その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。(詩編107:2b,3,8)
あなたがたは世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。(エフェソ2:12~13)

私たちは心を合わせて祈り、思いを一つにして神を賛美します。神が私たちを一つの民としてくださいました。ですから私たちは喜んで神に礼拝を献げます。「主は、彼らを苦しめる者の手から贖い、国々の中から集めてくださった、東から西から、北から南から。」神が私たちを呼び集めてくださったのです。私たちは、今も主なる神さまの御前にいます。主が私たちを祈りへ招いてくださったからです。
私たちはかつては神を知らず、祈ることを知りませんでした。主イエス・キリストにある喜びも、神に賛美を献げる恵みも知りませんでした。しかし、以前は遠く離れていた私たちを一つに結んでくださったのは神さまです。キリストの血によって私たちを一つにしてくださいました。このお方を共に信じ、共に崇め、一つの民として生きる喜びが私たちに与えられています。
キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2026年1月21日水曜日

2026年1月21日の聖句

神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。(詩編42:3)
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。(2コリント5:6~7)

主イエスさまにお会いしたい、主の御顔を仰ぎたい。それが私たちの最大の願いです。しかし、今私たちはこの目で主イエスの御顔を見、この手で主イエスに触れることはできません。
今日の旧約の御言葉にはこのように書かれています。「神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。」主を求める切実な思いが言い表されています。私たちの願いです。私たちの求めです。私たちも渇いている。求めている。表面上、私たちの願いや求めや渇きは他の何かに向いているように思われるかもしれませんが、本当に私たちを満たすことができるのは主イエスさまです。だから、他の何かでこの渇きを満たそうとしてはならないのです。他の何によっても満たされない。主だけが私の魂の渇きを癒やすことができる。他にはない。そのことを純粋に信頼しましょう。
しかし、私たちが本当に顔と顔とを合わせて主を仰ぐことができる日はまだ来ていない。それは世の終わり、すべてのものの完成の時のことです。ですから今「私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいる」のです。キリストを待ち望み、キリストに期待し、キリストに祈って今日を生きるのです。

2026年1月20日火曜日

2026年1月19日の聖句

夢が多ければ、ますます空しくなり
言葉も多くなる。
神を畏れよ。(コヘレト5:6)
私たちは、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。(2ペトロ1:16)

今日の旧約の御言葉は私たちにとってはかなり意外な言葉ではないでしょうか。「夢が多ければ、ますます空しくなり」と言います。むしろ信仰者は夢を見、幻を描くというのが私たちのもっているイメージではないかと思います。実際に箴言には「幻がなければ民は堕落する」(29:18・新共同訳)という言葉もあります。今日の御言葉は、こういう言葉と矛盾しているように思えます。どういうことなのでしょうか。
コヘレトの言葉は、聖書の中でもある特別な輝きとメッセージを持っている、と思います。コヘレトは今・ここに私たちの目を向けさせます。未来のことや、ましてや死後のことを考えて右往左往するのではなく、今を大切にし、今幸せになることを考える。そういうメッセージが込められていると思います。
確かに、夢の中には「夢想」とでも言うべき、今この時をごまかしたり現実逃避をしたりするという危険も含まれていると思います。同じ第5章の2節では「仕事が増えれば夢を見、言葉が増せば愚かな者の声になる」とも言われている。心の余裕がなくなり「今」というときと向き合うことができなくなってしまうということは往々にして起こります。そうではなく、私を今ここに生かしてくださっている神を畏れて生きよ、とコヘレトは言います。
キリストの救いのメッセージは、現実逃避の言葉ではありません。私たちがしっかりと地に足を付けて生きることができるようにするものです。キリストをお迎えする備えをして生きるからこそ、私たちはほかの誰よりも責任をもって、この時と向き合って生きることができる。私たちはそう信じているのです。

2026年1月19日月曜日

2026年1月19日の聖句

どうかまず主の言葉を伺ってみてください。(歴代誌下18:4)
(イエスの言葉)私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6:63)

主の言葉。これこそ、私たちの信仰の基です。主の言葉からすべては始まる。聖書は私たちにイエス・キリストを証言します。キリストこそ、人となった神の言葉。キリストにおいて、神は私たちに語りかけ、ご自身の御心を示してくださいました。「どうかまず主の言葉を伺ってみてください。」そう、私たちは何よりも先ず、キリストに耳を傾け、へりくだってこのお方の御言葉に聞き、従います。自分の自己実現のためとか、自分が認められることではなく、キリストに従うことを私たちは願いたい。
主イエスは言われます。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」キリストの言葉は、霊の言葉だとおっしゃいます。霊の言葉とはどういう意味でしょうか。その意味を考えるために、反対を考えてみます。「霊の言葉」の反対は「肉の言葉」ということになると思います。肉というのは、私たちの人間としての思いです。それこそ自己実現だとか認められたいだとか、そういうことでしょう。私たちの中から生まれてくる言葉からは、「十字架」が答であるような問いは生まれてきません。「主に従うこと」が答えであるような言葉は、私たちの肉からは生まれてこないのです。そうであるからこそ、私たちはまず霊の言葉である主の言葉に耳を傾けなければならない。霊の言葉は、十字架にかけられたキリストに従うことを私たちに教えます。へりくだった神の子こそ救い主と私たちに証言します。キリストの言葉こそ、私たちの命の言葉です。
主の言葉に耳を傾けましょう。私たちに神の思いを現してくださるキリストに従いましょう。主の言葉に聞き、従うところに私たちのキリスト者としての命があるのです。

2026年1月18日日曜日

2026年1月18日の聖句

今週の聖句:
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

今日の聖句:
私は平和をあなたの管理者とし
正義をあなたの監督者とする。(イザヤ60:17)
父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。(第三ヨハネ3)

主なる神さまは、平和によって私たちを管理し、正義によって監督する、と言われます。もちろん、私たち人間のつくる欺瞞に満ちた「平和」や、一部の人に都合の好い「正義」ではありません。神さまの御心に適う平和であり、正義です。主イエス・キリストによって現された平和であり、正義です。主なる神さまは私たちを暴力や威嚇で支配するのではなく、キリストのへりくだりによって御支配なさったのです。
ですから私たちの互いのための祈りは、これに尽きます。「父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。」キリストを仰ぎ、キリストの平和によって私たちが守られ、神の愛によって私たちが生かされますように。このお方の満ちあふれる恵みによって私たちは今日も朝の目覚めを頂きました。主イエス・キリストの祝福を互いのために祈る共同体として、この新しい一週間を生きていきましょう。

2026年1月17日土曜日

2026年1月17日の聖句

主はあなたにとって確かな方。(詩編91:9)
(バルティマイは)ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。(マルコ10:47)

「主われを愛す」というすてきな讃美歌がありますが、この中で「主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ」と歌います。主イエスさまが強いお方でいてくださる。私は弱いけれども恐れることはない。私たちは、私たちを愛してくださる主の強さによって立つことができる。
「主はあなたにとって確かな方。」そうなのです。私は不確かだけれども、私は不確実だけれども、主は確かなお方。主は確固たるお方。このお方によって私も立つことができる。ここに信仰者の平安の秘訣があります。
今日の新約に登場するバルティマイという人は、盲人の物乞いでした。道端に座っていたバルティマイは、主イエスがそこに来られたと聞いた。それで叫びました。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」
主が確かなお方でいてくださる。主が必ず私を救ってくださる。そのことを信じ、私たちもバルティマイと一緒に祈りましょう。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」主の憐れみに身を沈めるようにして祈ります。息を吸うたび、吐くたびに、主の憐れみを乞い求めます。私たちは主の御前に、物乞いでしかありません。主の憐れみによってでしか生きることのできない者です。しかしこのお方の憐れみが確かでいらっしゃるからこそ、私たちは安心して生きることができるのです。

2026年1月16日金曜日

2026年1月16日の聖句

あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。(ゼカリヤ8:23)
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。(1コリント12:13)

私たちは一つです。キリストの教会は一つ。それは、私たちが気が合うからだとか、仲良しだからではありません。同じ言葉を話すからとか、同じような文化に生きてきたからとか、そういうことでもない。世界中の教会が一つの教会であるし、私たちが会ったことなく見たこともないキリスト者たちも、一つの教会です。それは、礼拝の様式が同じだからとか、教えが完全に一致しているからとか、そういうことでもない。
私たちは、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、例え誰であっても、「一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらった」のです。つまり、聖霊によって私たちは一つ。神ご自身の霊が私たちを一つにしてくださるのです。
私たちは世界中どこの教会に属すにしても、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けられます。キリストがそうお命じになったからです。洗礼を授けられるとき、私たちは聖霊なる神様のお取り扱いを頂きます。主が聖霊を与えてくださったからです。主ご自身の霊によって、キリストにつなげられる洗礼を授けられて私たちは一つになった。
私たちにとってこれはとても実践的で具体的な事柄です。高座教会とさがみ野教会が一つの教会として生きることができるのは、ただ聖霊のお働きによる。目に見えるところでの主のお働きを信じることができなければ、どうして目に見えない遙かな広がりを持つ「一つの教会」を信じられるでしょうか。主を信じましょう。聖霊の起こしている出来事を信じましょう。信仰をもって、いま私たちの間で起きている出来事を仰ぎましょう。

2026年1月15日木曜日

2026年1月15日の聖句

さあ来て主に向かい、喜び歌おう。
私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。(詩編95:1)
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。(黙示録15:4)

私たちと同じプロテスタント教会の伝統に生きる教会の中でも例えばメソジスト教会と呼ばれる教会では、聖餐の時に聖餐卓の前に進み出てパンと杯に与ります。私たちの礼拝では会衆席に牧師や長老が来て配餐しますが、メソジストでは逆に礼拝者が前に進み出て聖餐を頂く。こういう伝統を持っている教会はいくつもあります。私は、とても良い伝統だと思っています。今日の御言葉にこのように書かれています。「さあ来て主に向かい、喜び歌おう。私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。」さあ来て、と書かれている。私たちが能動的に動くこと、主の前に進み出ることには大切な意味があると思います。私たちは主の前に進み出てこのお方を賛美し、主に向かって歩み出して喜びの声を上げるのです。
もちろん、それは聖餐の分餐方法の如何によらずに同じ事で、私たちの礼拝だって主の前に進み出るという心において変わるところはない。主に向かうこと、思いも肉体も主に向けること。そのことを大切にし、実際的に主に向かって礼拝を献げましょう。
今日の新約にあるとおり、主は正しいお方、正しい裁きをなさるお方です。それは、主が私たちに正面切って向かっていてくださる、ということであると思います。主が私たちを訪れ、私たちをご自分の前においてくださっている、ということであると思います。そうであるからこそ、私たちの方からも主の前に進み出ましょう。まっすぐな心、一筋の心を主に向けて祈り、賛美し、このお方を礼拝しましょう。

2026年1月14日水曜日

2026年1月14日の聖句

主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り
彼らを助け出される。(詩編34:8)
夜の間に天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。(使徒5:19~20)

使徒たちが伝道していたのを見て、主イエスを十字架にかけた大祭司やその仲間たち、あるいは復活を否定するサドカイ派の人々は使徒たちを捕らえて牢につなぎました。ところが、主なる神さまが天使を遣わしてくださった。「夜の間に天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。』」主ご自身が御使いを遣わして、彼らを助けてくださった。これに応えて使徒たちは再び神殿に行って、命の言葉を告げ始めました。
使徒たちの伝道は、常に困難がつきまとっていました。ペトロやヨハネやヤコブ、あるいはパウロたちにでさえ、いつも難しいことでした。増して私たちは・・・と思います。主イエスのいちばん側にいたペトロでさえこんなにも苦労して取り組んでいたことを、私たちが片手間でできるわけがない。「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい。」主のご命令に従って、命の言葉を「残らず」に告げる覚悟と気合いが必要なのだ、と思わされます。
必ず、主に仕える私たちを主が助け、支えてくださいます。「主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り、彼らを助け出される。」神の助けがあるという約束をしっかりと信じ、福音のために私たちの教会も主に仕えたい、と願います。

2026年1月13日火曜日

2026年1月13日の聖句

主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。(サムエル上2:30)
イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14:23)

今日の旧約聖書の御言葉はサムエル記ですが、実はここで語られていることには、とても具体的な状況が前提にありました。この当時、祭司エリが信仰の指導者でしたが、エリの息子たちは殆どならず者のような青年でした。人々が携えてきた主へのささげ物を横取りし、勝手に食べてしまう。しかもいちばん美味しいところを自分たちの分にしてしまう。エリは息子たちに注意はしましたが、彼らをそのような悪から引き戻すことはできずにいました。
「私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。」主を侮る祭司エリの息子たち。主に献げられるべき物を自分の懐にしまい込み、主への分を自分の楽しみのために奪い取ってしまう。彼らの有り様です。
主イエスは言われます。「私を愛する人は、私の言葉を守る。」主イエスを愛するならば、主の言葉を守るはずだ、と言われます。確かにもっともです。人間関係だってそうです。主の言葉を蔑ろにして自分の欲望を満たすなら、主を侮り、軽んじているとしか言いようがない。私たちは、どのように生きているでしょうか?何を優先しているでしょうか?
「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」主を愛するとき、私たちは、自分が実は本当に途方もなく大きな主の愛の中に生かされていたことに気付きます。キリストをくださったほどの愛を示してくださった神を蔑ろにして、私たちは他の何を欲しがるのでしょうか。

2026年1月12日月曜日

2026年1月12日の聖句

主よ、あなたには、弱き者を強き者に抗して助けることも難しいことではありません。(歴代誌下14:10)
イエスは汚れた霊を叱り、子どもを癒やして父親にお返しになった。(ルカ9:42)

主は、弱き者を強き者に抗して助けることも難しくない。主はどんな悪からでも私たちを救うことがおできになる。私たちはそのことを信じる。
「イエスは汚れた霊を叱り、子どもを癒やして父親にお返しになった。」
私たちは汚れた霊、悪霊に対して、本当に弱いものです。「汚れた霊」というのは、何もお化けとか幽霊とかそういうもののことだ、というのに限らないと思います。そういうことも含まれるかもしれませんが、そんな呑気な話ではない。現に私たちを罪と悪でもって支配する力、それが汚れた霊です。罪を犯すとき、私たちはすでに悪霊の力に支配されてしまっている。自分がどんなに罪の力に弱いのか、どんなに悪に対抗する力に乏しいのか。それは、少しでも罪を退けていきたいと願ったことのある者なら誰でも知っていることではないでしょうか。
しかし、主なる神さまは、弱き者を強き者に抗して助けることがおできになる方です。私たちがどんなに弱く、罪と悪の力に脆くても、神はそれを退けることがおできになる。私たちは神の力を見くびってはならないのです。
ですから、信仰をもって神によりすがりましょう。私たちと共にいてくださる方は、どんな悪の力よりも強いのです。まずは私たちがそのことを信じ、確信し、信頼して神の手に自分自身を委ねましょう。

2026年1月11日日曜日

2026年1月11日の聖句

今週の聖句:
神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです。(ローマ8:14)

今日の聖句:
全能者なる神、主は詔(みことのり)して、
日の出るところから日の入るところまで
あまねく地に住む者を召し集められる。(詩編50:1)
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15)

今日の旧約聖書の御言葉は、口語訳が選ばれています。「主は詔して」と書かれています。同じところの聖書協会共同訳の訳語は「主は語りかけ」と訳されています。私の手もとにある辞書では「詔」は「天皇の言葉(を書いたもの)。勅語・詔書など」と語釈されていました。私たちが聞くのは天皇の言葉ではなく神の言葉ですから、この訳語はあまり相応しくないと判断されて、それ以降の翻訳では捨てられたのでしょう。ただ、天皇というところを括弧に入れることができるなら、支配者であるべきお方の言葉を頂くという位置関係は、むしろ神の言葉にこそふさわしいと思います。全能者なる神こそ王の中の王、すべてのものの支配者です。このお方が、私たちに御言葉を語りかけてくださる。
神は私たちに語りかけ、私たちを呼び集めておられます。「日の出るところから日の入るところまで、あまねく地に住む者を召し集められる。」神の御許へ、神の恵みの中へ、神は私たちを召し集めておられるのです。このお召しに、あなたは従いますか?
このお召しは、全世界の、ありとあらゆる人に向けられています。まさに今週の聖句が「神の霊に導かれる者は、誰でも神の子なのです」と言っているとおり、神は私たちをご自分の子として召し出し、私たちを神の御側近くに招いておられる。あなたも王の中の王でいらっしゃるお方に召し出されています。このお方の呼び声にどうか応えてください。

2026年1月10日土曜日

2026年1月10日の聖句

今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去ることなど、私たちがするはずがありません。(ヨシュア22:29)
自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4:16)

主を信じ、主に従い、主と共に生きる。それは、絶対に一人ではできません。共に信じ、共に生きる神の家族の中で私たちは育まれ、信仰者として生きることができる。教会に包摂されることで、私たちはキリストの体になるのです。
「今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去ることなど、私たちがするはずがありません。」
代々の信仰者たちが、そのように誓ってきました。もちろん、過ちもあるし、失敗もある。思った通り、言ったとおりにできるほど甘くはない。しかしそれでも神の憐れみにより、そして教会の仲間の祈りに支えられ、私たちは信仰者として生きています。そのために、私たちは互いのために祈り合い、励まし合い、共に生きていきましょう。
「自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。」
この言葉のすてきなところは、自分のために自分のメンテナンスをする、という話ではないところです。自分のことと教えとに気を配ることが、自分だけではなく教会全体の益になる、と言っているところです。この御言葉を肝に銘じたい、と願います。互いの救いのために、私たちは教会に召されているのです。

2026年1月9日金曜日

2026年1月9日の聖句

私は彼らを慰め、悲しみに代えて喜びを与える。(エレミヤ31:13)
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。」(2コリント1:7)

今日の新約はコリントの信徒への手紙です。使徒パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙です。コリント教会とパウロとの関係は、実はあまり良かったとは言えません。むしろかなり難しかった。この教会にはパウロを非難する者も多かったのです。
ところが、パウロはそういう人たちが読む手紙に、このように書くのです。「私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。」凄い言葉です。普通だったら言えないと思います。「私はあなたたちにはほとほと絶望している。もはや一切期待していない。」そう言ってしまいそうなところですが、パウロは違った。「あなたがたについて抱いている希望は揺るぎません」と言えた。なぜか。
「なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。」
パウロはたくさんの苦しみを知っている人です。多くの苦難を味わってきました。その苦しみの中にはコリント教会との軋轢もあったはずです。しかし、パウロは自分は独りぼっちで苦しんでいる、誰にもこの苦しみは分からない、とは言いません。あなたがたは私の苦しみを共にしてくれている。なぜそう言えるのか。それは、慰めも共にしている、と信じているからです。この慰めは、キリストが下さる慰め以外の何ものでもないでしょう。キリストが御言葉によって私を慰め、あなたをも慰めてくださっている。あなたがたは、私の苦しみを共にしてくれているね、だから主は私たちを共に慰めてくださっているね、とパウロは語りかけます。主を信じ、主に完全に期待している信仰者の言葉です。

2026年1月8日木曜日

2026年1月8日の聖句

主よ、あなたはその栄光と力強い御手とを、あなたの僕に示し始められました。(申命記3:24)
(イエスの祈り)父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私のいる場所に共にいられるようにしてください。あなたが私に与えてくださった栄光を、彼らが見るようになるためです。(ヨハネ17:24)

主イエスさまは私たちのために祈ってくださいます。今日の新約の御言葉は、主イエスが十字架にかけられる前の夜の出来事を伝えている箇所です。主はご自分がかけられる十字架を前に、他ならぬ私たちのために祈ってくださいました。しかも、その祈りはこの時かぎりの祈りではない。私たちは、使徒信条でキリストが天に上り、父の右に座しておられると告白します。父の右で何をしておられるのか?私たちのために祈っていてくださるのです。主イエスの私たちのための祈りは、十字架を前に、そして今に至るまで献げられている。主は私たちのために祈り続けてくださっています。
「父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私のいる場所に共にいられるようにしてください。」
私たちは主に与えられた者たち、主のものです。主イエスさまという羊飼いに養われる羊の群れ。その私たちが主のいらっしゃる場所に共にいることができるようにしてください、と祈っていてくださいます。そうやって主の御側近くにいさせて頂いて、私たちが主の栄光を仰ぐことができるように。「主よ、あなたはその栄光と力強い御手とを、あなたの僕に示し始められました。」キリストの栄光が私たちを照らしている。私たちはそういうキリストの祈りによって支えられているのです。

2026年1月7日水曜日

2026年1月7日の聖句

さあ、あなたがたの悪しき道から立ち返れ。
なぜ、あなたがたは死のうとするのか。(エゼキエル33:11)
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。(ヨハネ3:21)

エデンで神から「食べるな」と命じられていた木の実を食べてしまったアダムとエバは、主が園を歩く音を聞き、主の顔を避け、園の木の間に身を隠しました。神の御顔を避けた。神を仰ぐことも、神のまなざしの中にあることも拒んだ。それが罪を犯した人間の末路です。よく分かります。誰にでも身に覚えがあるのではないでしょうか。そんな私たちの姿を、ローマへの信徒への手紙は「罪の支払う報酬は死です」(6:23)と言います。神を拒むことは、私たちにとっては死そのものです。
ところが、主なる神さまは私たちに語りかけておられます。「さあ、あなたがたの悪しき道から立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」罪の中で死んではならない、と主は私たちに語りかけてくださいます。私のもとに立ち返って、生きよ、と言ってくださるのです。主は私たちを愛し、私たちが生きることを望んでくださっています。
しかも、主なる神さまはただ遠くから私たちを呼び、ただ待っているだけではありません。私たちのところに来てくださいました。主イエス・キリストこそ、暗闇の中に神の顔を避けて逃げ込む私たちのところへ来てくださった光そのものです。私たちのところに来た曙の光である方が言われます。「真理を行う者は光の方に来る」と。私たちのところへ訪れた光、イエス・キリストの御許に帰りましょう。生きるために。主の御許へ立ち返るとき、私たちは、私たちが真理に立ち返るよりも先に既に真理の光が私たちを照らしてくださっていたことを知るのです。

2026年1月6日火曜日

2026年1月6日の聖句

あなたは荒れ狂う海を治め
高波が起こるとき、
これを鎮めます。(詩編89:10)
イエスは弟子たちに言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか。」そして、起き上がって風と海とを叱りつけられた。するとすっかり凪になった。(マタイ8:26)

人間には海を支配することはできません。波を鎮めることも、嵐を来なくすることもできません。現代の科学技術をもってすれば、ある程度の予測をすることはできるかもしれない。護岸工事をすることもできるかもしれない。しかし、それだけです。人間のすることには限界があります。人間にできることは「支配」などではなく、状況へのできうる限りの対応でしかありません。
しかし、主はそうではない。主なる神さまには荒れ狂う海を治めることも、高波を鎮めることもおできになる。それをお造りになった方ですから。ですから、襲いかかる風と海のために主イエスがここにいてくださることを忘れ、恐れる弟子たちに主イエスはおっしゃいます。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか。」そう、私たちは怖がってはならない。恐れてはならないのです。海も風も支配しておられる方、死の力を制圧する方の舟に私たちは乗っているからです。
嵐のように私たちに襲いかかってくる試練があります。私たちを縛り付ける悪の力は強い。しかし、私たちは恐れません。すべてを支配しておられる方の御側近くに私たちはおいて頂いています。私たちは自分の非力さではなく、主イエスの王としての力を信じ、雄々しく、強く、この時を生きていきましょう。

2026年1月5日月曜日

2026年1月5日の聖句

主こそ、その民の力。(詩編28:8)
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。(2テサロニケ2:16~17)

主こそ、私たちの力です。私たちは神の民、神に養われる者たち。私たちは私たちを愛してくださる方のお陰で強く生きることができます。
しかし、私たちは弱い存在です。この体は弱く、痛いところも病気になってしまうところもあるし、心は萎えやすく、気力が失われてしまうことも少なくありません。しかし私たちが弱くても、主は強いお方です。私たちをどのようなときにも掴んでいてくださる神さまの御手が確かだからこそ、私たちは平安のうちに生きることができます。
今日の御言葉は言います。「私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。」
神が私たちを強めてくださるのは、私たちが他人に勝って上に立つことができるようにするためではありません。神が私たちの心を励まし、強めてくださるのは、私たちがそれによっていつも善い行いをし、善い言葉を語る者とするためです。善い業のために、神は私たちに力を与えてくださるのです。
これはこの世の原理とは全然違う言葉です。力を持って上に立ち、人を自分に仕えさせるのではない。神は私たちを仕える者とするために強くしてくださる。キリストがそうしてくださったとおりに、私たちが隣人のための善い業に仕えるようにと、主は私たちを励ましてくださるのです。

2026年1月4日日曜日

2026年1月4日の聖句

今週の聖句:
私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

今日の聖句:
私は耐え忍んで主を待ち望んだ。
主は耳を傾けて、私の叫びを聞かれた。(詩編40:2)
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」(ヨハネ5:7~8)

エルサレムにベトザタと呼ばれる池がありました。この池には伝説があり、時々天使がやって来て水面を揺らす、というのです。その時真っ先に水に入った人はその病が癒やされる、と伝えられていたようです。そこに38年間も病気で苦しんでいる人がいました。主イエスは彼を見て「良くなりたいか」とお尋ねになった。すると彼は答えます。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」
「ベトザタ」は「慈しみの家」という意味なのだそうです。しかしここには一切の慈しみなどない、苛烈な競争社会です。いちばんの人だけが癒やされる。競争社会で38年間負け続けたこの人は既に疲れ切っていて、気力も失われていました。そんな思いがにじみ出ている言葉だと思います。
ところが主イエスは「起きて、床を担いで歩きなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼に諦めるように説得したのでも、もっと頑張れと励ましたのでもありません。神の言葉を聞かせ、御言葉が生み出す新しい出来事に巻き込んだのです。私たちも同じキリストの言葉を今日聞いています。
「私は耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、私の叫びを聞かれた。」私たちには、忍耐が必要なときが必ず訪れます。どうしても出口の見えない苦しみがあります。しかし主は必ずご自分を呼び求める私たちの声に耳を傾けてくださいます。そして、キリストの言葉によって私たちを新しくしてくださる。御言葉の出来事によって私たちを立たせてくださる。「起きて、床を担いで歩きなさい。」これは、私たちへの御言葉です。

2026年1月3日土曜日

2026年1月3日の聖句

主よ、あなたのまなざしは
真実に向けられてはいないのですか。(エレミヤ5:3)
愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。(3ヨハネ5)

神さまは私たちを教会というキリストの共同体の一員にしてくださいました。この時代にあってそれは本当に貴重で、光のように輝く宝のような存在です。
2000年前に教会が生み出されたとき、社会は今よりもずっと厳しいものだったと思います。食べるのに事欠いていた人も多く、戦争で故国が失われてしまう、ということも起きました。そんなときにキリスト者たちは共に生きることで難しい時代を生きていきました。「愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。」よそから来たのであろうとも、同じ主を信じ共に生きる兄弟として、姉妹として迎え、誠実を尽くして共に生きる。キリストの愛が教会の中で実現した。最初のキリスト者たちは、キリストにあって愛し合うことでキリストの愛を証ししました。
オトマール・シュルツという人がこのような祈りの言葉を残しています。「私の人生に大きな喜びと力を与えてください、あの他者のための。私はあなたに従いたいのです、あなたと共にいたいのです、あなたに忠実でありたいのです。私に力を与えてください。」共に生きる力を、私たちも神に願い求めましょう。
私たちはキリストが真ん中にいてくださる共同体です。真実そのものでいらっしゃるキリストを共に仰ぎます。そのことで私たちは一つです。「主よ、あなたのまなざしは、真実に向けられてはいないのですか。」そう、主のまなざしは真実に向けられている。だから私たちもキリストにこの目を向ける。教会が共に生きる秘訣は、その一点にあります。

2026年1月2日金曜日

2026年1月2日の聖句

主を恐れる者を祝福してくださる。
小さな者も大いなる者も。(詩編115:13)
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。(1ペトロ3:9)

使徒ペトロは「祝福」と言っています。この言葉は、ペトロの手紙がもともと書かれたギリシア語では「良い言葉」という字を書きます。悪い言葉ではなく良い言葉を受け継ぐために、あなたがたは神から呼び出されたのだ、というのです。すてきな御言葉です。
私たちの周りには悪い言葉が溢れています。世の中にはびこっている悪意を隠し持った言葉や相手を侮辱する言葉。他者を立ち上げるのではなく貶める言葉。しかもそれは私たちの外にあって自分とは無関係と言うことはできない。私たち自身の心の中から生まれてくる言葉に他ならない。
しかし聖書は、私たち自身よりも私たちの価値を高価なものと捉えています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。」自分のような者には悪い言葉や侮辱の言葉がお似合いだ、と私たちが思い込んでしまったとしても、聖書は決して「お前はその程度だ」とは言いません。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたからです」と聖書は宣言します。祝福、それは単なる「良さそうな言葉」ではない。神の良き御心があなたに向いている、と宣言する恵みの言葉です。そのような意味での祝福こそあなたにふさわしい、と聖書は私たちに語りかけます。
私たちが小さくても、大きくても、主は私たちを祝福してくださっています。神の良き御心がこの私にも向けられ、あなたにも向けられている。私たちは神さまが語りかけてくださる恵みの言葉、良い言葉の中を生きることが許されているのです。

2026年1月1日木曜日

2026年1月1日の聖句

2026年の聖句:
見よ、私は万物を新しくする。(ヨハネの黙示録21:5)

1月の聖句:
心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)

今日の聖句:
主なる神は、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。(イザヤ25:8)
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。(1ヨハネ4:9)

「神の愛が私たちの内に現されました。」この宣言から新しい年が始まりました。神が独り子イエス様を私たちにお遣わしになった。この事実にこそ神の愛は現されたのです。しかも、ここでは「私たちの内に」と言っています。神の愛という私たちにとっては「外」にある事実が私たちの「内」に現されたのです。客観的な事実が私たちの主観的な実在として現れた。それがクリスマスの出来事だ、と聖書は私たちに語りかけます。
2026年の聖句では「見よ、私は万物を新しくする」というすばらしい御言葉が与えられています。すべてを新しくしてくださる神さまの御業。私たちを含むこの世界は、神さまの新しい創造を待ち望んで今この時を生きています。主イエス・キリストの復活こそ、新しい創造の開始です。私たちをキリストのようにしてくださる。キリストの勝利に与らせてくださる。すべてを新しくしてくださる。神はそう約束してくださいます。
私たちの生きるこの世界は悲しみに溢れているし、痛みを抱えています。それはこの世界を傷つけ、踏みにじる私たちの罪のなせることです。しかし、神がお造りになったこのすばらしい世界を損なう私たちの罪に神ご自身が打ち勝ち、すべてを新しくしてくださる。主は、私たちの罪の恥をすべてこの地から消し去ってくださるのです。
私たちの新しい年の歩みがキリストを賛美するものでありますように。

2026年2月15日の聖句

今週の聖句: 今、私たちはエルサレムへ上って行く。そして、人の子について預言者が書いたことはみな実現する。(ルカ18:31) 今日の聖句: (ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。(創世記50:17) 互いに親切で...