主はもろもろの民の裁きに当たられる。(詩編7:9)
神は先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(使徒17:31)
今日の御言葉は、どちらも神の裁きということを語っています。今日の新約の箇所の直前には「さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と書いてあります。さらに、ここにある「無知な時代」というのは、文脈を見ると「神ならぬものを神とする時代」ということになるようです。
神ならぬものを神とするというのを、あまり単純に「異教の神々」とか「何かしらの像」と決めつけないほうが良いと思います。主なる神さまを信じる言いながらも自分の貪欲を一番にしているとか、祈っているようだけど実は自己実現しか考えていないとか、いろいろなかたちの神々を私たちは持っているのではないか。それは神の御前での恐るべき無知なのではないか。そう思います。
神は、私たちを裁かれます。私たちはそのことを本当に畏れなくてはならない。神さまの公正と正義が実現する。私たちはその時に立ちうるのでしょうか?
先日もご紹介しましたが、ルターの95箇条の提題の最初に書かれていたのは「悔い改め」でした。しかも「私たちの全生涯が悔い改めであること」です。私たちは裁き主の前で真実な悔い改めをして生きていきます。そこにしか私たちの信仰の誠実はないのではないでしょうか。
神は先にお選びになった一人の方によって、この世界を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。(使徒17:31)
今日の御言葉は、どちらも神の裁きということを語っています。今日の新約の箇所の直前には「さて、神はこのような無知な時代を大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と書いてあります。さらに、ここにある「無知な時代」というのは、文脈を見ると「神ならぬものを神とする時代」ということになるようです。
神ならぬものを神とするというのを、あまり単純に「異教の神々」とか「何かしらの像」と決めつけないほうが良いと思います。主なる神さまを信じる言いながらも自分の貪欲を一番にしているとか、祈っているようだけど実は自己実現しか考えていないとか、いろいろなかたちの神々を私たちは持っているのではないか。それは神の御前での恐るべき無知なのではないか。そう思います。
神は、私たちを裁かれます。私たちはそのことを本当に畏れなくてはならない。神さまの公正と正義が実現する。私たちはその時に立ちうるのでしょうか?
先日もご紹介しましたが、ルターの95箇条の提題の最初に書かれていたのは「悔い改め」でした。しかも「私たちの全生涯が悔い改めであること」です。私たちは裁き主の前で真実な悔い改めをして生きていきます。そこにしか私たちの信仰の誠実はないのではないでしょうか。