教案誌「成長」のカリキュラムに従って使徒言行録を読んできましたが、今日で一区切りです。使徒言行録は天に昇る主イエスが使徒たちに、あなたがたは私の証人となるとおっしゃったことから始まりました。そして教会がどうやってキリストの証人として生きたのかを伝えています。使徒言行録によれば、彼らは何より祈る教会でした。今日の箇所でもそうです。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」この「彼」というのはペトロのことで、ヘロデ王の迫害のために捕らえられ、投獄されていました。教会はヘロデが支配する世界で祈り続けたのです。約2000年経ち、今でも彼の地では暴力の応酬が続いています。20節を見ると、キリスト者ばかりでなく、ティルスやシドン地方に住む人々もヘロデが食料の流通をにぎっていたために彼に従わないわけにはいかなかったようです。同じことが今でも起きています。こんなに大きな力を前にして、教会に一体何ができるのかと思います。教会は、祈り続けました。しかも、熱心に祈りました。希望を絶やしませんでした。その希望はどこから来るのか。復活です。今日の聖書の箇所には復活という言葉は直接には出てきません。しかし、隠された主題は復活信仰です。そもそも事の始まりは使徒ヤコブの殉教、即ち死です。そして投獄、天使の登場、神の力による救出、出迎える女、男の弟子の不信仰といった具合に、福音書がキリストの十字架と復活を伝えるのと同じモチーフがいくつも登場しています。ペトロが牢から解放されたことを、まるでキリストの復活をなぞるように描いているのです。復活の信仰は、うっかりすると現在の私の命にはあまり関係のない、遠い未来の話のように考えてしまいますが、そうではありません。今、ここで、どういう望みをもって祈り続けるのかということに深く関わっているのです。しばらく前、成瀬教会のY君のために祈って頂きました。まだ二十歳の青年ですがくも膜下出血で倒れ、私たちも彼のために熱心に祈りました。手術が成功し、彼は今元気になりました。更にこの出来事を通して祈りを取り戻したそうです。教会の人たちに祈られていることへの感謝が溢れているそうです。お父様とメールのやりとりをしましたが、聖書の言葉を引用して、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」とおっしゃいました。神の息子である自分を取り戻したのです。教会はどのようなときにも祈り続けます。このヘロデの世界で傷つき痛む人々のために。
2024年4月20日の聖句
私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...
-
主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
-
詩編29~30 主は洪水の上に座し 主は王として、とこしえに座した。 主がその民に力を与えてくださるように。 主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに。(30:10~11) 川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の...
-
今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...