2017年1月1日日曜日

ルカによる福音書第2章21節 「主イエスこそあなたの救い!」

2017年が始まって私たちが一緒になって最初に耳にした御言葉は、今日の招きの言葉である「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」です。神は新しいことを行ってくださいます。私たちのところでも!それをワクワクしながら待ち望みましょう。ですから、どうか、例えばこのようなことはおっしゃらないでください。自分はもう年をとっていて、新しいことなど始まりようがない、と。私たちは生まれたときから神に負われてきました。態を出たときから担われてきて、これからも、老いる日、白髪になるまで神が背負ってくださいます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得」るのです。しかし、興味深いことに神は「遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ(申命記32:7)」とも言われます。これは昔を思い出して懐かしめ、という意味ではありません。日本語では過去のことを「以前」と言って「前」という字を使います。実は聖書の民ユダヤ人が使っていたヘブル語にも同じような表現があります。私たちの目の前に広がるのは以前のことです。それに対して将来、以後のことは後にあります。私たちの目ではそれは見えません。昔の日々を思い起こすとは、神がしてくださったことを思い出せ、ということです。神が2016年もあなたを生かしてくださった。それどころか、生まれる前から背負い続けてくださってきた。だから、目に見えない以後の事柄については神に安心して任せよ、ということです。ですから、私たちは神を待ち望み、安心して、今すべきことに全力を傾けましょう。今私たちがするべきこと、それは、私たちが共に生きる隣人に、ひたすら福音を語り続けることです。使徒言行録4:12にこのような言葉があります。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」これは、足の不自由な人をペトロとヨハネがイエス・キリストの名によっていやしたときの出来事です。彼をいやして福音を宣べ伝えたためにペトロとヨハネは捕らえられて取り調べを受けました。福音を語ると、反対もあることでしょう。しかし私たちが救われるべき名は、この名の他にはないのです。イエス・キリストの名にこそ、神の愛と私たちへの救いのメッセージが込められています。今日の福音書はルカ2:21です。「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」クリスマスの八日目、つまり11日ですが、この日に生まれたばかりの男の子にイエスという名前がつけられました。この名は天使に示された名だと書いてあります。つまり、神がイエスという名前をおつけになった、ということでしょう。名前には願いが込められています。私も二人の子どもに願いを込めて名前をつけました。イエスというお名前に神が込めた願い、それは何か?このイエスという名が父ヨセフに示されたとき「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」と天使に言われました。神は私たちが罪から救われることを願って、その子にイエスという名をおつけになりました。イエスとは「主は救い」という意味です。あなたを罪から救うためにイエスが来られた。この名にある救いを信じてください。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...