2017年2月19日日曜日

詩編31:8-9、使徒言行録2:42「自由に生きることに熱心な生き方」

 昨年は「喜びを証しする共同体」という主題を掲げ、私たちは歩みをいたしました。礼拝後には教会員総会がありますが、私たちの歩みを振り返るとき、どのように振り返ればよいか。それは教会が保ってきた信仰という基準から、私たちは振り返る必要があります。毎週、礼拝において告白しています使徒信条に、私たちの歩みを振り返るための基準があります。その中でも、本日は、すっと読み飛ばしてしまうような一言に注目します。「聖徒の交わり」を信じる、という告白です。この短い一言で言い現わしている内容は豊かです。この信条は、「招かれた私たちは、聖徒として交わっているのだ」という信仰を告白しています。私たちは聖なる交わりに属している者なのです。驚くべきことです。いったいなぜそのようなことが言えるのでしょうか。聖なる交わりに属している者などと呼ばれる資格が自分にあるのでしょうか。問い返したくなるかもしれません。
使徒信条をよく見ますと、しかしながら、「私一人が聖なる者とされた」とは告白していないことに気が付きます。「聖徒の交わりを信じる」と告白しているのです。それは言い換えるならば、個人の性格や気質、備えている物を見て、使徒信条はあなたを聖なる者とは見ていない、ということです。誰も一人では聖なる者とはなれないのだ、ということです。私たちが信じているのは、神に招かれた交わりがあって、初めて私たちは聖なる交わりに属している者となり得るということです。礼拝に招かれ、隣の人と共に神を見上げ、祈りを合わせ、主の食卓を囲んでいる、その交わりに属しているからこそ、私たちは聖なる者となり得るというのです。
 使徒言行録第242節では、「使徒の教え、相互の交わり、パン裂き、祈り」に熱心であったキリスト者が描かれています。なぜ彼らは熱心だったのか。2世紀という時代背景を思いますと、その時代には、二つのキリスト教への攻撃がありました。「大衆のうわさ(誤解)」と「論理的な攻撃」です。特に前者は、根拠のないレッテルを張られるようなうわさが広まっていたようです。キリスト教は、子どもの肉を食べるとか、十字架上のロバが彼らの神だ、とか。聖書の言葉の一部だけ拾われて、勝手にイメージされたのでしょうか。相手にもしたくないような誤解がありました。しかし、面白いことに、護教家(ごきょうか)と呼ばれる2世紀のキリスト者は、その誤解を無視するのではなく、自分たちの信仰を言い表すために皇帝に書物を送るのです。「私たちの信じていることはこうなのだ!」言い換えると、信仰の告白をしている。キリスト者として時代を生き、信仰の告白をするというのは、社会からの批判(多くの場合は誤解かもしれません)に、応答するという意味もあるのだと思います。それを自分の言葉で言い表すことができるように備えることこそ、信仰を告白し、信仰を新たにするということです。私たちは「聖なる交わり」に招きいれられました。これは個人的な趣味や好みとして見受けられがちですが、そうではない。あなたも招き入れられる交わりだ。神の与える聖なる交わりなのだ!そう言うことができる。自分の手の届く範囲の自由などではなく、この世界をご支配なさる方に招かれ、その方に祈りをし、大胆に生きることのできる自由がここにあります。聖なる交わりに招き入れられている自由な歩みがここにあります。

詩編第119編89から96節「神の言葉に果てはなし」

「あなたの律法を楽しみとしていなければ、この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」苦しみから私を救ってくださったのは、あなたの律法。そう告白する。苦しいときの神頼みという言葉が批判的に言われることがあるが、もっと深刻なのは「苦しいときの神離れ」だ。苦しみの時にこそ、思いと心...