2017年4月30日日曜日

ガラテヤの信徒への手紙6:1-6「福音の要」

福音、それは喜びの知らせです。それを聞けて良かったと思う知らせです。教会に良い知らせがあります!何か。主イエスの十字架は、あなたの救いだ!それを聞いて信じるだけで、父なる神はあなたをお認めになる。これが私たちに与えられている福音です。
 都合がよすぎるでしょうか?確かに、私たちが抱えている悩みが福音を聞いて、何でもかんでも解決され、順風満帆にいきなりなる、という訳ではないかもしれません。私たちの想像する救いとは異なるのですから。ですが、私たちに最も必要な救いは、すでに実現し、与えられているのです。それは神との信頼関係に生きるということです。
 そんな気休めのようなこと言われても・・・と思われるかもしれない。ですが、私は思うのです。聖書が私たちに問うていることというのは、「あなたはどのようにして神との信頼関係に生きるのですか?」という問いだということを。
 パウロはガラテヤの人々に向けた手紙で言います。「あなたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」 霊を受けた。すなわち、神に認められ、神の霊によって生きるようにされた。それは律法を行ったからなのか?それとも福音を聞いて信じたからなのか?福音を聞いて信じたからに他ならないでしょう。神との信頼関係というのは、福音の言葉を聞いて信じるところにのみ、成り立つのだ!パウロはそのように語りかけています。
 ですが、時にこんな風に思ってしまうかもしれない。神さまが何か具体的に働いてくださったら、信じられるかもしれない。そうすれば、私も神さまにお献げする生活を送れる。ですが、物々交換のような関係を神さまとの間で成り立たせるのは、私たちの救いではありません。人間の努力や行いで手に入る関係というのは、魅力的のようであっても、救いではありません。「こうすれば手に入る」という言葉は、ついには自分を滅ぼしてしまう言葉です。宗教改革者ルターは、信仰によって義と認められる、ということを自らの心に受け入れるまで、神と格闘した人物でした。「こうすれば救われる」という言葉と戦い抜いた人物だったとも言えます。世の中の言葉と戦った人物でした。

 父なる神との関係において、わたしたちに与えられている唯一の言葉は福音です。それは、あなたは既に十字架の御業によって救いを受けている。あなたはそれをただ聞いて信じるだけでよい。それ以上も以下もない。あなたは信仰をもって福音を聞いたとき、救われた。神との信頼関係に生きるようになった。もはや、神はあなたを義と認められている。神との信頼関係に生きるように、導かれている。あなたを訴える者は、誰もいないのである。これこそが最も私たちに必要な福音の言葉です。

2024年3月19日の聖句

逃れ場は、いにしえからおられる神のもとにある。(申命記33:27) 心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には住まいがたくさんある。(ヨハネ14:1~2) 主イエス・キリストが私たちのための住まいを父の家に準備してくださっています。「逃れ場は、いにしえか...