2017年4月13日木曜日

マルコによる福音書15:34(2017年受難週祈祷会・木曜日の奨励)

三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコによる福音書15:34)

主イエスの十字架の上での叫びです。聖書には主の十字架上でのお言葉が七つ記録されていますが、この言葉はその中でもある独特な響きと重さを持っていると思います。主イエス・キリストは、神から棄てられて死んでいかれました。神の怒りを浴びて、呪われて、神の敵になって死なれました。絶望のどん底です、主イエスがおられるのは。どこにも希望がありません。それは、主イエス・キリストが、絶望している者の友になるためです。私たちも絶望することがあります。絶望している人の側にいることもあります。こころ病むとき、貧しいために、絶望することがあります。子どもだって、例えばいじめの標的にされて絶望します。主イエスは叫んでおられます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」すべての絶望するものの声を代表するかのようにして、キリストは叫んでおられます。
私たちが日曜日に告白している使徒信条に、キリストが陰府に降られたという言葉があります。改革者カルヴァンは、キリストが陰府に降られたのは、十字架の上であの叫びを叫ばれたときだといいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」ここに陰府がある。神から棄てられた。神を呼んでも答がない。神が敵になってしまわれた。人はそういう状況を運命だとか定めだとか、そういう言葉で表現するのかもしれません。しかし、主イエスははっきりとおっしゃる。「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか。」
私たちも人生に絶望を経験します。しかし、その絶望は、イエス・キリストおひとりがたえられた、あの絶望ではもはやありません。キリストと私たちを区別することは、どんなに深刻なものであろうと私たちの苦悩を劇的にすることをできなくします。なぜなら、キリストがあの強大な陰府の力を粉砕されたことを私たちは知っているからです。そうです。十字架にかけられた三日目の朝、キリストは復活させられた。陰府の力を打ち破って、私たちのところに再び来てくださった。キリストが十字架の上で神から棄てられたのは、本当であれば自分のまいた種を刈り取って神から棄てられるべきだったこの私の代わりに棄てられたのです。私たちには世で苦難がある。しかし、キリストが私たちに代わって棄てられたから、私たちは、もはや神から見捨てられることがありません。決して、そのようなことはあり得ないのです。陰府のどん底にはすでにキリストがおられます。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...