2017年6月11日日曜日

ヨハネによる福音書16:4b-15「あなたにも、神は働いている!」

この一週間も、神さまがそれぞれに旅路を守ってくださって、今日の朝を迎えました。悩んでしまうこと、試練、悲しみもあったことでしょう。そのようなとき、神を信じる者は神を呼びます。早天祈祷会の奨励をメーリングリストで配信しています。先日、八木重吉の私の大好きな詩を送信しました。

てんにいます
おんちちうえをよびて
おんちちうえさま
おんちちうえさまととなえまつる
いずるいきによび
入りきたるいきによびたてまつる
われはみなをよぶばかりものにてあり、

もったいなし
おんちちうえ ととのうるばかりに
ちからなく わざなきものなり
たんたんとして、いちじょうのみちをみる

いろいろなものを抱えながら、息をする度に神を「おんちちうえさま」と呼びます。そうすると、抱えているものは変わらなくても、違った風景が見えてきます。それは多くのキリスト者が経験する喜びです。

クリスティアン・スクリーヴァーという人はこのような祈りの言葉を残しています。
 イエスよ、肉のきずなから、私を救い出してください!
 イエスよ、罪と恥から、私を救い出してください!
 イエスよ、思いわずらいと苦痛から、私を救い出してください!
 イエスよ、悲しみと臆病な恐れから、私を救い出してください!
 イエスよ、ため息と涙から、私を救い出してください!
 イエスよ、哀願し、ただ憧れるだけの苦しみから、私を救い出してください!
 イエスよ、この混乱から、私を救い出してください!
 ああイエスよ!ああイエスよ!
 来て、私が天に至り得るように助けてください!アーメン!

主イエスは必ず助けてくださいます。私たちも信頼しましょう、この私にも、神は働いてくださると。神はこの私にも働いてくださっている。その事実を、聖書は、聖霊の働きと言い表します。聖霊はこの私にも働いてくださっている神ご自身です。罪と恥から私を救い、思いわずらいと苦痛から、私を救ってくださいます。そのような信仰の確信は持てない、私はそのような立派なキリスト者ではない。そう思われるでしょうか?それはそうなのかもしれません。信仰は自分で獲得するものではありません。聖霊が与えてくださるものです。
ご病気があって礼拝には出席できない教会員のTさんが先日お電話をくださいました。最近元気がなくて、もうイヤになってしまうこともある。新約聖書を開いてみた。フィリピの信徒への手紙第44から7節を読んだ。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」そう書いてあったのだけど、それで良いのだろうか、この聖書の言葉を信じたら良いのだろうか。そういうお電話でした。私は、ああこの方にも聖霊は働いておられると思いました。
私たちの苦しみの時にも神は私たちの中でもまた働いていてくださいます。私たちがそう実感できないときにも、例え時に砂を噛むような思いで聖書を開いたとしても、それでも神は働いていてくださいます。聖霊は、私たちに、主イエス・キリストを思い起こさせてくださいます。私たちの目の前には今主イエスはおられないけれど、しかし、聖霊が私にも働いてキリストをこの心に刻んでくださるから、主が今目の前におられないことは却って良かったとまで主イエスは言われる。確かに、神が独り子イエスをこの私のために下さったと信じること以上の喜びが私たちにあるでしょうか?
先週の日曜日に修養会をしました。昨日は中会でよく似た研修会をしました。どちらもこれからの教会のことを考え、語り合いました。そして、いずれも、天の父なる神が独り子イエスを下さった喜びを伝えたい、という願いに満ちていました。それが既に聖霊の働きです。聖霊によって、私たちは教会になったのです。 

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...