2017年6月18日日曜日

エゼキエル書第37章1から14節「それでも望みがある」

教会って一体なんでしょうか。きっと、幻を見るところなのだと思います。幻というと、何だか儚くて頼りない印象を受けますが、聖書に登場する幻は日本語の語感とは少し違うように思います。イマジネーションによって見えてくる、現実を超えたものを見るまなざしです。預言者エゼキエルは幻に生きた人です。「わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。」古戦場なのでしょうか?詳しいことはよく分かりません。しかし、これはただの骨ではない。そこには多くの骨があり、それらは甚だしく枯れています。神さまはエゼキエルに言われます。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ我々は滅びる。』」エゼキエルが見た幻は、当時のイスラエルの人々の心象風景そのものと言っても良いでしょう。戦争に敗れ、国土は荒廃し、国の要人は外国に連れ去られ、国は崩壊しました。イスラエルは骨になっただけではなく、甚だしく枯れていたのです。預言者は時代の正体を幻の内に見ています。しかし、神さまは更におっしゃいます。「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ。これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」望みがうせるとき、滅びるしかないとき、しかしそこに神の霊の風が吹きます。私たちに命を与えるために。望みがあるのです。教会は神が下さるいのちの喜びを共に分かち合い、一緒に喜び合う場所です。讃美歌339番に「来たれ聖霊よ」という歌があります。「来たれ聖霊よ、われらの心に。つくられしものを満たせ、恵みもて。」これは訳詞ですが、原詞では「来たれ造り主なる霊よ」となっています。神の霊である聖霊は造り主、いのちの造り主です。私たちにいのちを与え、今生かし、慰め、心に愛の火を燃やしてくださいます。そのために四方から聖霊の風が吹いています。この讃美歌の歌詞は9世紀に活躍したラバヌス・マウルスという祭司が作りました。中世から現代まで歌い継がれてきたのです。何と、16世紀の日本でも歌われていました。1582年にローマ教会の教皇のもとへ旅立った伊東マンショら天正遣欧少年使節が広めたようです。マンショは1590年に帰国し、楽器や活版印刷を持ち帰りました。1605年、つまりもう江戸時代ですが、日本で最初の讃美歌集が出版されます。その中に「来たれ造り主なる霊よ」の楽譜が入っていました。安土桃山時代の末期や江戸時代に入っても、この歌を日本のキリスト者がうたっていました。そして、キリシタン弾圧の時にも歌い続けていた日がありません。死に至るとき、造り主なる聖霊よ、来てください、私を慰め、いのちを与えてくださいと歌いながら、自分のいのちを神に捧げました。枯れた骨のような私たちのところへあなたの風を吹かせてください!望みのないところに望みを拓いてください!墓穴を開き、私たちを墓から引き上げ、死から救ってください!彼らはそう歌い、信じ、そして信仰を貫いたのでしょう。この国でキリスト者達はそう歌い、信じてきました。現代に生きる私たちもその歴史に連なっています。そして、私たちさがみ野教会もその歴史の一端に加えられています。今の時代は決してたやすいものではありません。今こそ私たちは祈りましょう。「聖霊よ、来てください。いのちを与えてください。望みを与えてください。私にも、そして、望みを失っているあの人にも。」   

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...