2017年9月10日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「あなたの友だちは誰ですか?」

憐れみ深いサマリア人の譬え。人類の宝とも言えるこの物語は、主イエスがなさった譬え話、フィクションである。フィクションは実にしばしばノンフィクションよりも深い真実を描き出す。この物語も例外ではない。いや、主イエスのなさった譬えであればこそ、それはなおさらのことと言うべきであろう。ある人がエルサレムからエリコへの道で追いはぎに襲われた。半殺しの目に遭い、道に捨てられた。しかし、そこを通りがかった祭司もレビ人も、見て見ぬ振りをして道の反対側を通り過ぎてしまった。実に薄情。そう思ってしまう。しかし、むしろ常識的な振る舞いである。以前、ブラジルからお客さんがいらした。彼もブラジルで強盗に遭ったという。しかし、誰も助けてくれなかった。助けたら自分が危ないからだ。強盗に遭わないように気をつけるのは自己責任なのである。もしかしたら行き倒れの振りをした強盗かもしれないし、あるいは彼を餌にして近くに潜んで次の獲物を狙っているかもしれない。あるいは、もしも彼が本当に死んでいたとしたら、祭司やレビ人は死体に触ると大切な神殿での仕事がしばらくできなくなってしまう。だから、彼らの振る舞いはごく常識的なのだ。そう、私たちは実にしばしば「常識」を言い訳にして愛をおろそかにする。私たちは忙しくて、大切な仕事をいくつも抱えている。台所には皿が積み上がっているかもしれないし、部屋の中は散らかっているかもしれない。子どもの要求に応えていてはそれは片付かないままだ。洗濯物を畳んで夕食を作らねば、家族の介護も進まない。社会的な責任を果たさないと、家族に飯を食わせることもできないのだ。ボンヘッファーは指摘する。「自分が今日行うつもりの重要な事柄に没頭して、しかも場合によっては聖書に読みふけりつつ、助けを必要とする人たちの側らを通り過ぎて行ってしまうのである。しかもその結果、われわれは、人間の道ではなく神の道こそが重要であると示そうとしてわれわれの生活の中によく見えるように立てられた十字架のしるしを見逃して、その側らを通り過ぎて行ってしまうのである。」心に突き刺さる。主は三番目の通行人を登場させる。サマリア人だ。ユダヤ人とサマリア人とは激しくいがみ合っていた。しかし、彼は倒れている人を見つけたら憐れに思い、近寄って介抱してやった。この時、サマリア人はきっと何も難しいことを考えていなかったのだろう。自分が襲われるかもしれないだとか、この人の自己責任だとか、この後の自分の予定に差し障るだとか、この人は大嫌いなユダヤ人だとか。常識外れの行いだ。底抜けのお人好しだ。自分が危ないのだ。自分の大切な予定に差し障るのだ。自分の感情に逆らうのだ。そんなことはバカがすることだ。しかし、このサマリア人はそうした。そして、この宝のような物語を聞かせてくださったキリストもまた、私たちのためにそうしてくださった。私たちには考えられないほどのかきむしられるような憐れみの心に突き動かされて、私たちのために神の子である方がすべてを捨ててくださったのだ。そうやって、私たちの隣人、友になってくださった。主イエスは誰の友にもなってくださる。その方が言われる。「行って、あなたも同じようにしなさい。」私たちにも、そうできる。キリストがしてくださったことを私たちも知っているからだ。   

詩編第126編「思いもしない偉大な業」

この詩編はバビロン捕囚からの解放を背景としているのだろう。圧倒的な異国の力に押しつぶされ、解放など考えられもしなかった。しかし「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった。」神の御業は我らの思いを遙かに超...