2017年10月8日日曜日

ガラテヤの信徒への手紙第2章19bから20節「生きる」

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」何と圧倒的な福音の言葉なのでしょうか。まさにこれこそ神が私たちに下さった福音です。神の子が私を愛し、私のために身を献げてくださったのです。この世界を造って、この私に命を与えて、今も世界を支配している神がこの私を本当に御自分の身を献げるほど愛してくださったのだとしたら、それは究極的な救いです。もしもそうであれば、他の誰が何と言おうと私は救われている。改革者ルターはこの言葉を愛しました。彼は言います。「『私を』『私のために』という言葉を大きく強調して読み、この『私を』をたしかな信仰をもって受け入れ、これを自分に当てはめることに習熟するがよい。」面白い言葉です。「習熟するがよい」と言います。ルターはまことに牧師らしく、私たちがなかなか信じられずについ恐れてしまうことをよく知っているのです。恐れていませんか?毎日の生活のために、誰かに非難されているために、自分にふりかかる現実のために。恐れと信仰は両立しません。神がこの私を愛してくださっている、キリストはこの私のために十字架にかかってくださった。それが神からの答です。だから、私たちは信じることに習熟して、大胆に信じましょう。神の子がこの私を愛し、この私のために御自分を献げて十字架にかかってくださったことを。そうであるからこそ、私を恐れさせる「現実」と思い込んでいるものを吹き飛ばすような神の圧倒的な力を。ルターの父親は彼のことを法律家にしたかったようです。しかし、青年ルターはあまりその気になれなかった。これからの自分の人生に悩んでいたとき、たまたま、すぐ近くに雷が落ちるという経験をした。危うく死にそうになった。彼は祈った。「助けてください、修道士になりますから!」その後、彼は親の反対を押し切って修道士になりました。死を前にして生き方を変えた。しかし、彼は修道士として祈りの生活をしながらも、心が晴れませんでした。聖書を学べば学ぶほど、神の義に押しつぶされそうになった。どうしたって自分が神に救われるとは信じられない。自分の生き方を真剣に問い、悩み、つぶれそうになっていました。彼は詩編を読んでいた。第71編にラテン語訳で「あなたの義によって私を救ってください」という言葉があった。塔の一室でそれを読んだルターは、これはキリストのことを言っていると気づいた。これは私が功徳を積んで立てる義ではない。キリストが私を義としてくださる。そう知ったとき彼の世界が変わりました。私の正しい生き方が私を救うのではない。キリストがこのどうしようもない私を救ってくださる。それからルターは生涯その信仰に生きました。神は、他でもないこの私を愛してくださっている、と。信じることには習熟が必要です。自分なんかダメだという声が響いたり、その逆に、自己正当化して周りに問題があると呟いたり。私たちの心はとかくやっかいです。でも、そういう古い私は、もうキリストと共に十字架にかけられて死にました。洗礼を受けたとき古い自分は水に沈んで死んだのです。今生きているのは、あなたの内に生きるキリスト。あなたを生かすキリストの真実を、大胆に信じてください。 

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...