2017年10月22日日曜日

ローマの信徒への手紙第3章21から31節「信仰」

改革者ルターが説教をしている姿を描いた絵が残っています。説教壇に立つルターと会衆席との間に、十字架につけられたキリストがおられる。ルターはキリストを指さしています。私の大好きな絵です。説教、それは十字架を指さす行為です。そこにかけられたままのキリストを証言します。ルターはそのことに集中しました。私たちは一体どこで十字架を見るのでしょう。それは、あらゆるところに立っています。例えば、子育てをしている自分の愛の乏しさに気づいた時、一体どうしたら良いのか?日常の小さな事かもしれませんが、本当に情けなくてがっかりします。そこで十字架を仰ぐのです。この方はどうして十字架の上におられるのでしょう。ルターはこのような言葉を遺しています。「キリストの恵みを獲得するのにふさわしい者となるために、人間は自分自身に絶望しなければならないということは、確かである。」この私の罪のために、絶望すべきこの私のためにキリストは十字架にかかりました。私だけのことではない。それはこの時代の罪であり、社会の罪であり、人類の罪です。先日、私が好きでよく聞くラジオ番組でアウシュビッツ強制収容所の取材報告がありました。恐ろしい蛮行に気が遠くなります。一つ指摘されていたのは、あの蛮行は戦前ドイツの社会のイライラや鬱屈した思いがヘイトスピーチになり、ユダヤ人を貶め、他にもロマや障がい者、同性愛者を排除する雰囲気を作っていた。ヒトラーがそれを発明したのではなく、社会がヒトラーを求めていた、ということでした。それは、今日本に生きる私たちと無関係でしょうか?私たちの信仰告白にこのような言葉があります。「歴史において神の裁きは、自由の下に置かれた人々や国々が、戦争や暴動、奴隷、抑圧、天然資源の破壊、政治的・政治的搾取といった悪を選びとってしまうことにおいて経験される。神は、不必要な苦しみや死を引き起こすそれらすべてのものを忌みきらわれる。神の裁きは、この世の生を超えてある。すなわち神の裁きは、神への依存を否定し、悔い改めと信仰と愛なしに生きようとする人間のあらゆる試みに対峙する。イエス・キリストによる神の救いを拒絶する者は、神から遠く離れ、希望無く罪と死に隷属し続ける。それは地獄である。」聖書はそういう私たち人間の現実を誰よりも知った上で言います。「ところが今や」と。ところが今や新しい時代が始まったのだと。「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」前田護郞という先生はこのように訳します。「イエス・キリストのまことによる神の義で、信ずるものすべてのためのものです。」私たちがキリストを信じる私たちの信仰ではない。キリストのまこと、別の訳では「信実」と言っています。キリストの信実によって私たちは救われる。キリストの信実とは何か?ある人は言います。キリストの信実とは、キリストが私たちのいる不信仰のどん底、地獄にまで来てくださる事だ、私たちは地獄でも、いや地獄でこそキリストと出会う。それがキリストの信実だ。私たちは弱い。弱く情けない人間です。いや、ただ弱いだけではなくて、薄汚れた罪人です。だから、私たちにはキリストが必要なのです。ルターはこころ病む者に、そのことを手紙で訴え続けました。「キリストは私たちが毎日罪を犯したとしても、それらの罪を私たちから取り去ってくださいます。」この方の信実に信頼しようではありませんか。   

詩編第119編161から168節「感謝の先取り」

「主よ、わたしは御救いを仰いで待ち、あなたの戒めを実行します。」待っている。今はまだ苦しんでいるから。頼りは神の言葉だけなのだ。「仰せを受けて私は喜びます、多くの戦利品を得たかのように。」今はまだ勝利したわけではないが、既にそうであるかのように喜ぶ。感謝を先取りしている。神の言...