2018年3月4日日曜日

イザヤ書第52章7から12節「美しい知らせ」

今朝の説教題を「美しい知らせ」としました。少し訂正しなければならない、と思います。神さまが私たちに下さった知らせは、もちろん、美しいものです。しかし、美しいのは知らせだけではありません。その知らせを伝える者の足もまた美しいと言うのです。ですので、私は信じています。私の足もまた美しい、と。図々しいでしょうか?いいえ。良い知らせを伝える者の足は、やはり美しいのです。マラソンという競技の紀元になったのは、「紀元前490年、ギリシャのアテネ軍が侵入したペルシア軍を撃破し、一人の兵士が戦場のマラトンからアテネまでの約40キロの距離を走り、戦勝を報じて死んだという故事」なのだそうです。マラトンの戦い、それはアテネ軍には勝つ見込みが少ない戦いだったとも聞きます。しかし、勝利を収め、その良い知らせをもたらすために山々をかける者の足は、アテネの人々になんと美しく見えたことでしょう。私たちは、しかし、それ以上に素晴らしく美しい、とびきりの良い知らせを伝えようとしています。「あなたの神は王となられた」と。イエス・キリストは王になられた。私たちも、世界のすべての国々も、それを今仰ぎ見ている!主イエスさまが、私たちに「御国を来たらせたまえ」と祈ることを教えてくださいました。神さまの国が来ますように、神さまが王として私たちを御支配くださいますように。教えられたとおりに、私たちはこれまで何百回、何千回祈ってきたことでしょう。その私たちに、告げ知らされます。「あなたの神は王となられた」と。このイザヤ書第52章は、先ほどのマラトンの戦いの少し前、紀元前六世紀を背景にしています。それから70年ほど前にユダの国はバビロンとの戦争に敗れ、国の要人たちは皆遠い異国の地に捕囚として連れて行かれてしまいました。この預言者は遠い捕囚の地で活動した人物です。捕囚の地で、彼らは小さかった。預言者の言葉に耳を傾けたのは、明らかに個人ではなく集団です。こう表現することも許されるでしょうか。そこにあったのはバビロンの教会だ、と。圧倒的な世の力の前で、物の数にもならない小さな集団、バビロンの教会。「あなたの神は王となれた」と預言者は言うけれど、実際にこの世で即位している王の力は圧倒的で、下手をすると預言者の言葉など絵空事に過ぎません。しかし、彼らは信じたのです。神さまがくださった良い知らせ、福音を。本当に私たちの神が王となられたのだ、と。今日の聖書の箇所は、すぐ後に第53章の苦難の僕の歌に続きます。主イエス・キリストのお姿をまことに美しく、鮮やかに歌った言葉です。美しい?そのお姿は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」と言います。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」およそ「王」にふさわしい姿ではありません。しかし、神さまはおっしゃいます。「わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。」この方は、王として私たちを支配なさる。どうやって多くの人を獲得したのか?私たちに代わって打ち砕かれ、私たちの背きのために懲らしめられることによって、です。私たちの王となってくださった方は、私たちに軽蔑され、無視された方なのです。その私たちの罪を、神はこの方にすべて負わせられました。神の美しさがそこにある。だから、私たちには平和があります。救いがあります。私たちは、もう、神の国の国民なのです。   

マルコによる福音書第4章26から33節「空の鳥が巣を作るほどに」

主イエスは、世界一の説教者です。実にイメージ豊かな譬え話をたくさんしてくださいました。土に種を蒔く人。その情景を想像します。どんな種、どんな茎、葉でしょう。穂と言うからには麦でしょうか。実りの時、収穫の喜びの時を迎えます。もう一つはからし種です。小さな種です。ごまより小さい。でも...